1930年代初頭 パテベビー関連商品カタログ(樫村洋行/満州・大連)

情報館・9.5ミリフィルム&パテベビー関連資料 より

Early 1930s Pathé Baby General Catalogue
(Kashimura Yoko Ltd., Dalian, Manchuria)

大連市繁華の中心たる浪速町と伊勢町と相交叉する十字街路の一画に巍然たる三層樓の屹立せるあり、是れ大連市に於ける時計及び貴金屬品の老舗として知られたる樫村洋行にして、店主保は三年前病を以て逝き今は未亡人ふじ子に依りて經營せらる、保曾て臺灣に在ること十年、時計商として盛名を馳せ、日ロ戰役当當時率先して満洲に來り、三十七年十二月と係争の先驅として、新開地に見るべからざる大店舗を磐城町に開く、出征軍人の來往する者爭ふて店舗を訪ひ、其在品の巨多なる品質の精なるを賞す、四十年信濃町に移りて店舗を擴張し、四十一年十二月更に現在の血を卜して新築移轉し天津其他に視点を設けて益々發展を試む、隆昌又昔日に倍せり、不幸にして店主逝き、其の經營の中心を失へるも、今や未亡人ふじ子を其主と仰ぎ、經營方針前日に異ならず、多數の店員を遇する慈を以てし、上下一致して故人の事業を更に一層盛大ならしめんと期す、數代連綿たる舊家も一朝にして柱石を失へば多くは衰運に傾く、樫村洋行の獨り能く盛名を維持し、益々其信用を高むるもの、洵に商界の佳話とすべし。

「樫村洋行」
『滿洲十年史』伊藤武一郎(滿洲十年史刊行會、1916年)


1930年代初めに発行されたパテ・ベビー関連商品の日本語カタログ、当時大連の浪速町通りに店舗を構えていた樫村洋行による発行。

樫村洋行は樫村保(1856 – 1911)が明治20年頃に熊本市に開設した時計および写真材料の販売店が元になっています。日清戦争後の明治28年台北、明治36年に天津に支店を設け、日露戦争中に営口市に出張所を置き、戦後大連の日本人居留地に正式に店舗を構えています。明治44年に保氏が亡くなった後は未亡人ふじ子が経営を引き継ぎ、さらに養子の又吉が三代目となり事業を発展させていきました。

『満支旅行年鑑 昭和14年』(1938年)掲載広告

樫村洋行は現在の華北部でツァイス・イコン社やイーストマン・コダック社の代理店となっていました。1920年代に仏パテ社が9.5ミリ小型映画の発売を開始すると「パテベビー・特約加盟店」として同社製品も取り扱うようになります。また満州ベビーキネマクラブが同社に置かれ月刊誌「マンシュウ・ベビーキネマ」が発行される等同地の9.5ミリ映画愛好家を束ねる役割も果たしていました。

終戦と同時に解体されたものの、昭和22年東京日本橋本町を本社とし株式会社樫村が再建されています。新生樫村は2000年代に加賀電子グループに入り、その後完全子会社となった後、2016年に社名を「加賀ソルネット株式会社 ハイテックカンパニー」と変更し現在に至っています。「樫村」の文字は消えたものの、取扱製品にコダック社製フィルムが含まれているなど明治創業時の痕跡を現在でも見て取ることができます。

明治~昭和初期の樫村洋行の沿革はそれ自体が戦前の植民地主義の縮図になっています。この紙資料についても、動画撮影機や映写機が当時の大陸にどのように持ちこまれていたかを示す貴重な資料であると同時に、経済・文化的な侵略の証でもあるという二重性を帯びています。

同時期に仏領だったアルジェリアやモロッコ、あるいは英領インド等でも同様の現象は起こっていました。日本がどうこう、という単純な話でもないんですよね。1920~30年代に9.5ミリ小型映画の技術および文化が世界のどの地域にまで広がっていたのか、それをどう理解し、伝え、後世に活かしていくのか…歴史の文脈を踏まえた上での「戦前9.5ミリ小型映画文化圏」の解明・確定は今後の研究が待たれる領域で、こういった紙物を含めまず一次資料を丁寧に揃えていくところから始めていきたいところです。