『温度とは何か』が問うもの

温度とは何か この標題で今年(平成23年春  2011年 )の物理学会で発表する予定であった。温度は物理学のあらゆる研究の条件となる重要な環境指標である。しかし『温度』と言う物理学的概念は中々捉えようのない不確かな概念でもあると思う。そこで私なりの解釈を学会の場で問題提起をしようと投稿した(日本物理学会講演概要集第66巻第1号第2分冊、p.443)。ところが今年は、日本物理学会第66年次大会(新潟大学キャンパス)が東日本大震災の影響下で中止となった。一応発表に使う資料を準備した。そこでその内容の一部をここに報告する事にする。『温度とは何か』は熱現象に関わり、その本質は的確に捉えられていないと思う。物理学理論、教科書的理論はとても納得できるものでないと言わなければならない。熱に関わる事に踏み込むと、収拾が付かなくなる程、言はば魔の領域でもあると聞いていた。温度は熱エネルギーと密接にかかわり、古くは産業革命の原動力となった蒸気機関の発明からの『熱理論』の研究対象となってきた。工業製品の自動車エンジン、クーラーの熱交換機、原子力発電所の原子炉と蒸気タービン等あらゆる現代科学技術の隅々に主動力源として応用されている。ならばその理論は完ぺきであると解釈するのが当たり前と思われよう。例えば水の蒸気機関では『蒸気線図と熱サイクル』として完璧な技術理論が完成されている。蒸気の圧力p[kg/㎠]と比体積v[㎥/kg]および温度T[℃]並びにエンタルピーi[kcal/kg]やエントロピーs[kcal/kg K]の関係で、その水蒸気の詳細な状態量を評価している(しかし、これらの概念量の単位はMKSに統一されていない上に、温度も摂氏温度[℃]と絶対温度[K]が混合している点は注意)。理論は兎も角として、この熱力学応用技術は完全に確立されていると見て良かろう。それでも『温度とは何か』と問わなければならない事がある。私が指摘したい事は『物理学理論』として大学などの教育現場で行われている『熱理論』の授業内容が無用に思える。今回の学会講演概要集にも計らずも(?)私と同じ標題の論文が載っているが、その内容は解釈・理屈が私のものと正反対である。

温度を何が決めるか 特に気体の温度は何が決めるかと言う『問答』である。それを右の図面で考えてみようと思う。先ず温度とは物理量かの問いである。教科書的熱力学は温度が基にあって、その時の気体分子をどのように解釈すれば良いかの論議に成っている。その逆で、『温度を決めるのは何か?』が重要な視点であろう。図には3つの温度が示されている。室温と言う気体の温度T[K]、温度計の指示値T_th_[K]および白熱電球のフィラメント温度T_f_[K]の3つである。温度計を電球の放射光から遮蔽すれば、室内の気体の定常温度Tを指示する筈である。室温は電球の放射光と気象条件などの外部条件の基に平衡温度に落ち着く。しかし電球の光が温度計に照射されれば、その温度計の指示値は室温より上昇する。その時の温度計の指示値は決して気体分子の運動エネルギーにより決まるものではない筈だ。直接電灯からの放射光のエネルギーが温度計の液体に入射してそのエネルギーに基づく膨張が指示値となった筈である。逆に、温度計の指示値から気体分子運動エネルギーを計算することは出来ない筈である。気体(空気)の温度は温度計の指示値から読み取る訳であるが、その指示値は何が決めるのか。まさか、空気分子が振動して温度計のガラスに衝突し、その運動エネルギーの一部をガラスの振動エネルギーに変換し、更にガラスの振動がアルコールの液体の運動エネルギーに伝達し、アルコールの液体の運動エネルギーの増加で、アルコールが膨張すると説明する訳ではないと思う。分子の運動エネルギーが増加すると、分子の衝突の影響が強くなり、互いの分子間の反発力の増加で、分子間の離隔距離が広くなり、膨張したような広がりを生むと看做す解釈になっている。「分子運動論」の基本的認識はそのような解釈に基づいているのだろう。しかしその解釈は本末転倒した論理である。温度が与えられると、その温度によって、分子運動が決まると言う解釈が間違いである。即ち温度が気体の運動を決めるのではなく、気体分子に与えられるエネルギーの量により分子の状態が決まるのである。どのような状態を呈するかと言えば、気体、液体あるいは固体の運動では無く、ただ体積の膨張・収縮と言う状態の変化で現れるだけである。図で示した意味は、電灯からのエネルギーが直接温度計のアルコールに入射し、アルコールの体積膨張を来たす現象として説明したかったのである。ボルツマン定数k と絶対温度T から、気体のエネルギーを kT [J] とするがT は必ずしも気体の温度を示している訳で無いと解釈する。結局『温度とは何か』である。それは、気体であれば、気体分子が保有するエネルギー量が周辺の近接する気体分子、媒体の保有エネルギー量との関係に基づき、近接する物同士の間で、互いにエネルギー放射と吸収の平衡状態に落ち着くようにエネルギーが流れる自然現象である。『エネルギー』そのものが実在している事の認識ができるかどうかの問題でもある。光が訳の分からない何かが振動しているような曖昧な解釈が罷り通っている状態では理解が出来ないと思う。光も振動する物など何も無く、ただエネルギーが縦に、縦波として伝播しているのである。物理学熱理論では、気体の温度を「気体分子の運動エネルギー、振動エネルギーあるいは並進運動エネルギー」等の『運動の衝突・反発力』による膨張との解釈と観る。それは気体分子などの質量に付帯したエネルギーと言う意味では、『質量』が物理的拠り所となっている点が私の解釈と異なる。それなら、その運動エネルギーが如何程であれば、逆に気体の温度を幾らと規定するのかと、温度と気体分子運動との相互依存関係の有無について、回答を要求せざるを得ない。『温度とは何か』が問うものは「何が温度を決めるのか?」であり、『温度』その物の意味を問う事でもある。温度の値を決める原因は何かを明らかにすることが物理学理論の進むべき本筋である。蛇足かも知れないが、もう一度言う。決して、気体分子の運動エネルギー論が気体の温度を説き明かす解釈にはつながらない。温度の基は『エネルギー』そのものである。光、光量子等と言はれるもの、太陽光線はその代表的なもので、エネルギーそのものである。そのエネルギーが気体分子、温度計のアルコール液体、部屋の壁面、床面に吸収されて、それぞれに貯蔵されたその吸収エネルギーが平衡を保つように逆にエネルギー放射されるのである。気体分子や『モノ』に入射した『エネルギー』そのものにより、『モノ』が膨張するのであり、運動などしていない。近接体同士の間でのエネルギー量の平衡が保たれるようにエネルギーの流れが起きる。気体分子や『モノ』のエネルギー吸収・放射特性が同じ訳ではないから、エネルギー量とその膨張量は違う。それぞれの物質間で、エネルギーの吸収・放射を繰り返しながら、膨張が決まり、結果的にその平衡バランスで温度計の指示値が決まるのである。その指示値を室温と解釈しているのである。さて上の図には電球のフィラメント温度T_f_[K]が基に成って、光エネルギーが放射されるが、その放射量を決める法則が『ステファン(・ボルツマン)則』で、絶対温度の4乗に比例すると言う。この法則が正しいかどうかと言う疑問がある。ここで光・熱の放射法則に触れておこう。熱放射則としては先ずプランクの式を挙げなければならない。プランク則は特殊な黒体の放射則であるが、温度と放射光の基本関係を解釈する基に成っている。この二つの式だ、その単位をご覧いただきたい。式も複雑であるが、その単位が問題である。そんな空間を伝播する光のエネルギーを測定できる訳が無いのである。エネルギーの単位ジュール[J]のメートルmの4乗当たり等の空間概念が測定できる訳が無い。じゃステファン則の単位秒当たり、単位面積当たりの空間エネルギー流(電気ではポインティングベクトルと言う)を測定できるかと言う疑念である。この点については、『プランク定数』を疑うと言う標題で別に論じたい(まだ未投稿のままである)のでここでは踏み込まない。(2013/02/12)以下#までを 追記。熱輻射理論に関する考察および花が光か 光が花か で熱輻射理論への疑問を記した#。ステファン則等あらゆる熱力学理論の基本定数として欠かせないボルツマン定数k[J/K]が有る。それは1分子当たりの保有エネルギーと絶対温度の関係が物質に関わりなく一定であると言う意味を表したものである。その古い意味を含んだ法則に『ボイル・シャルルの法則』が有る。ボイル・シャルルの法則そのものの法則としての意味は重要と思う。しかしボルツマン定数との関係付が怪しいと見る。こんな定数が正しいと言えるのかと言う疑問である。気体定数R、アボガドロ定数Nと言うとても古くて偉大な定数が物理学・化学の科学論の大原則として、頑迷に蔓延っている。例えば、アボガドロ定数は1811年に提唱された仮説である。どんなガス分子も同一の体積には同一の分子数であると言う解釈である。ならば、ベンゼン核を含む芳香分子ガスも水素ガス分子も本当にそんな法則が成り立つと言えるだろうか。教科書的原理の殆どは誤った古典的解釈論の伝達法に成っていると思う。科学技術社会を構築して来たのは科学理論ではなく、経済成長と言う人の欲望が進めてきたと思う。結論として、「気体分子運動論」は不要で無意味な論である。最後に、発表一枚目の準備シート。

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