氣多神社

氣多神社

越中国の国府があった富山県高岡市伏木の越中国総社跡(伝承地)に建つ古社が氣多神社(けたじんじゃ)。神社の南東500mには越中国分寺の後継寺院・高野山真言宗国分寺(薬師堂)もあり、一帯は古代の越中国の中心地。氣多神社も越中国一之宮と称しています。

能登・氣多大社の分霊を越中国総社に祀った!?

越中には一之宮と称する神社が氣多神社のほかに高瀬神社、射水神社、雄山神社と合計4社ありますが、氣多神社は、鎮座地の地名も一宮。

社伝によれば養老元年(717年)、能登の氣多大社(石川県羽咋市)の分霊を勧請して創建といい、境内「かたかごの丘」には「越中国総社跡伝承地」の碑が立っています。
総社は、赴任した国司が国内の各神社を巡拝する手間を省くために、国庁近くに祭神を集めて祀ったもので、越中国司に赴任した大伴家持(おおとものやかもち)も厚く崇敬したと伝えられています。

ただし、天平13年(741年)〜天平宝字元年(757年)には能登国が越中国に合併しており(大伴家持の越中国司就任は天平18年で、能登国合併時代に重なります)、国内随一の大社は能登の氣多大社であっただろうことから、国府近くにその遥拝所が設けられ、天平宝字元年(757年)の能登国独立の際に神社が創建されたと考えるのが無難かもしれません。

その後、時を経て、国府の衰退とともに総社的な機能を失い、寿永年間(1182年 ~ 1185年)には源義仲の兵火で焼失、さらに天文年間(1532年 ~ 1555年)には上杉謙信の北陸侵攻(守山城などを攻略)の際、兵火を受けてもいますが、藩政時代に加賀藩2代藩主・前田利常が社殿を修復。

現存する本殿は、戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)頃に再建されたもので、国の重要文化財。
気多神社社務所は神仏分離以前の別当寺(神社を管理する寺)だった慶高寺の本堂。

縁結びの神である大己貴命(おおなむちのみこと)とその妻である奴奈加波姫命(ぬなかわひめのみこと)の夫婦神が祀られており、縁結びのパワースポットとしても注目されています。

大伴家持も暮らした、国司館跡は、現在の高岡市伏木気象資料館、国府あったのは勝興寺あたりだと推測されているほか、越中国分寺跡の遺構が発掘されています(越中国分尼寺の遺構はまだ見つかっていません)。

氣多神社
越中国総社跡(伝承地)
氣多神社
名称 氣多神社/けたじんじゃ
所在地 富山県高岡市伏木一宮1-10-1
関連HP 高岡市公式ホームページ
電車・バスで JR伏木駅から徒歩25分
ドライブで 能越自動車道高岡北ICから約8.7km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 氣多神社 TEL:0766-44-1836/FAX:0766-44-1836
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
気多大社

気多大社

石川県羽咋市にある、能登国(律令時代に能登半島にあった国)の一宮だったのが気多大社(氣多大社)。日本海に面して鎮座し、祭神の大己貴命(おおくにぬしのみこと)は出雲から舟で能登に入り、能登を開拓した後、守護神としてこの地に鎮まったとされていま

越中国分寺跡

越中国分寺跡(薬師堂)

越中国(現・富山県)の国府は、現在の富山県高岡市伏木にあったと推測され(現在の勝興寺付近)、越中国分寺跡も同じ高岡市伏木にあります。聖武天皇が国家の安穏を祈願して全国に配した国分寺の跡で、天平13年(741年)の国分寺建立の詔で建立。現在は

高岡市伏木気象資料館

高岡市伏木気象資料館

富山県高岡市伏木は、古代には越中国の国府が置かれ、江戸時代から大正時代には北前船の寄港地として賑わった地。明治16年に私設の伏木灯台に併設するかたちで廻船問屋の藤井能三が建設した伏木測候所。その明治42年築というレトロな擬洋風建築を再生した

勝興寺

勝興寺

富山県高岡市伏木古国府、本願寺8世・蓮如上人ゆかり(浄土真宗本願寺派)の名刹で、越中国の国庁跡に建つのが、勝興寺。加賀藩10代藩主・前田治脩(まえだはるなが)の支援を受け、寛政7年(1795年)建立した本堂、大広間及び式台は国宝、そのほか1

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ