年表で見るトルストイの生涯と作品一覧~ロシアの大文豪の圧倒的スケールを体感

ロシアの巨人トルストイ

トルストイの生涯を年表でざっくりと紹介~ロシアの大文豪の圧倒的スケールを体感

今回の記事ではロシアの大文豪トルストイの生涯を年表でざっくりと見ていきます。

レフ・トルストイ(1828-1910)Wikipediaより

トルストイは1828年にモスクワ南方の村ヤースナヤ・ポリャーナにて、大貴族の4男として生まれました。

ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイの屋敷 Wikipediaより

そしてトルストイが亡くなったのは1910年のこと。享年82歳というのは当時の人にすれば驚くべき長寿です。

しかもトルストイという人間は並々ならぬカリスマです。そのスケールの大きさにはただただ驚くしかありません。あまりに波乱万丈。年表を見るだけでもきっと驚くと思います。

では、早速始めていきましょう。

今回参考にするのは前回の記事でも紹介した藤沼貴著『トルストイ』です。

以下の年表では『トルストイ』に書かれていないことも書き加えています。時代背景をより深く知るためにも重要だと感じたものを加えました。ご了承ください。

トルストイ年表

1818年 ツルゲーネフ、マルクス生まれる

1820年 エンゲルス生まれる

1821年 ドストエフスキー生まれる

1828年(0歳)ヤースナヤ・ポリャーナにて4男としてトルストイ生まれる。長兄ニコライ5歳、次男セルゲイ2歳、三男ドミトリー1歳

1831年(3歳)母マリア死去。遠縁のタチヤーナ、ばあやのプラスコーヴィアなどの愛情に包まれて育つ

1832年(4歳)ゲーテ(1749年生)83歳で死去

1837年(9歳)1月トルストイ家モスクワへ移る。2月、プーシキン死去。6月、父ニコライ急死。父の妹アレクサンドラ・オステン=サッケン伯爵夫人が後見人となる

1840年(12歳)フランスの文豪エミール・ゾラ生まれる

1841年(13歳)8月、アレクサンドラ・オステン=サッケン伯爵夫人死去。11月、新たな後見人ベラゲーヤ・ユシコーヴァの住むカザンへ移る

1844年(16歳)5~6月、カザン大学受験。不合格。9月再試験で東洋学部に合格

1845年(17歳)前期試験で成績不振。法学部へ転部。

1846年(18歳)ドストエフスキーのデビュー作『貧しき人びと』出版

1847年(19歳)1月、前期試験でまたしても成績不振。4月、遺産分割でヤースナヤ・ポリャーナを相続。「病気と家庭の事情」を理由に退学。5月、5年半ぶりに故郷ヤースナヤ・ポリャーナに帰る。自己鍛錬と農村経営に勤しむも挫折。迷走の生活へ。

1848年(20歳)フランス二月革命

1849年(21歳)トランプ賭博に熱中。借金に苦しむ。ドストエフスキーがペトラシェフスキー事件によりシベリア流刑。

1850年(22歳)文学の創作活動始まる。さまざまな規則を作り、「ばくちをする時の規則」まで作成。8月、バルザック(1799生)死去

1851年(23歳)1月、『幼年時代』着想。4月、休暇から軍隊に戻る兄ニコライと共に「急に思い立って」カフカースへ行く。6月、義勇兵として初めて戦闘に参加

1852年(24歳)1月、軍に入隊。5月、第二作『襲撃』執筆開始。6~8月、ルソー耽読。7月、『幼年時代』完成、『同時代人』誌に発送。11月、『少年時代』執筆開始。12月、『襲撃』完成

1853年(25歳)ペリー浦賀来航の年。1月、戦闘参加、戦争否定の気分強まる。2月、兄ニコライ軍務を退く。5月、退職願提出。6月、本隊を離れて行動したため、チェチェン人に襲われ、あやうく助かる。7・8月クリミア戦争勃発のため退職願受理されず。トルストイは前線部隊への転属を志願。

1854年(26歳)2月、ヤースナヤ・ポリャーナに一時帰着。家族と「最後の」別れ。3月、ドナウ方面に配属。4月、『少年時代」を『同時代人』誌に発送。11月、セヴァストーポリに到着。12月、『十二月のセヴァストーポリ』執筆開始(翌年6月発表)

1855年(27歳)3月、『青年時代』着手。4月5日~5月15日、セヴァストーポリの最激戦地第四堡塁へ入る。5~7月、『五月のセヴァストーポリ』執筆(8月発表)。6月、『森林伐採』執筆(9月発表)。8月28日セヴァストーポリ陥落。9月から『八月のセヴァストーポリ』執筆(翌年1月発表)。11月、セヴァストーポリを去りペテルブルクへ。主にツルゲーネフ邸に滞在し、都市の文学者から歓迎される。しかし知識人たちの言動、ロシアの雰囲気に違和感を覚える。

1856年(28歳)1月、トルストイ家三男ドミトリー、破滅的な生活の末30歳で死去。5~6月、ロシアの農奴制廃止が決定的になり、トルストイ自身も独自にヤースナヤ・ポリャーナの農奴に開放案を提示。しかし農民の信頼を得られず失敗。9月、『青年時代』完成(翌年1月発表)。12月、『地主の朝』完成、発表。

1857年(29歳)1月、最初の西欧旅行に出発。3月、パリでギロチンによる公開処刑を見て激しいショックを受ける。近代国家全体に対する懐疑、文明と進歩に対しする強烈な不信感を抱き、翌々日パリを去る。6月、スイスの保養地ルツェルンで大道芸人を観光客が侮辱したことに激怒。それをもとに短編『ルツェルン』を10日足らずで完成。現代文明社会の非人間性を痛烈に批判。8月、ヤースナヤ・ポリャーナに帰る。この頃から文学、家庭、農事を自分の使命と考える。

1858年(30歳)1月、『三つの死』完成(翌年1月発表)。3月、『アルベルト』完成(8月発表)。5月、夫のいる農婦アクシーニア・バズイキナとの関係が始まる。

1859年(31歳)4月『家庭の幸福』完成(5月発表)。11月、ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷内に学校を開き、農民の子供たちの教育を始める。

1860年(32歳)ドストエフスキー『死の家の記録』掲載開始。チェーホフ誕生。6月、二度目の西欧旅行。西欧各地の教育施設を見学。旅先でゲルツェンやプルードンに会う。9月、長兄ニコライ、肺結核で死去。深刻な打撃を受ける。

1861年(33歳)3月、ロシアで農奴解放令。5月、ツルゲーネフの娘の慈善事業をめぐり、トルストイとツルゲーネフ激論の果て、トルストイが決闘を申し込む。翌日ツルゲーネフが謝罪、決闘は回避される。しかし以後17年にわたって絶交状態が続く。

1862年(34歳)ユゴー『レ・ミゼラブル』発表。教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』発行。5月、心身不調によりバシキール地方に療養に出発。7月、ヤースナヤ・ポリャーナの屋敷と学校が家宅捜索を受け、学校事業が不可能になる。9月、ソフィア・アンドレーヴナ・ベルスにプロポーズ。婚約成立。新婦は18歳。12月、『コサック』完成(翌年2月発表)。

1863年(35歳)2月、新しい長編(未来の『戦争と平和』を着想)。6月、長男セルゲイ誕生。

1864年(36歳)10月、長女タチヤーナ誕生。秋~冬、長編『一八〇五年』執筆(のちに『戦争と平和』に発展)

1865年(37歳)2月、『一八〇五年』が『ロシア報知』に発表され始める。以後この長編執筆に専念。

1866年(38歳)ドストエフスキー『罪と罰』。5月、次男イリヤ誕生。11月、長編小説の題名が『戦争と平和』になる。

1867年(39歳)9月、マルクス『資本論』第一巻出版。以後も続巻のための執筆を継続。この年、渋沢栄一がフランス万博を訪ねる。江戸幕府の大政奉還

1868年(40歳)ショーペンハウアーを読み感動。

1869年(41歳)5~8月、カントとショーペンハウアーの著作を読み、人生について思索。5月、三男レフ誕生。9月、旅先のアルザマスでかつてない強烈な死の恐怖に襲われる。10月、『戦争と平和』完成。(12月発表)

1870年(42歳)2月、『アンナ・カレーニナ』着想。4月、レーニン誕生。7月普仏戦争勃発。

1871年(43歳)2月、次女マリア誕生。12月『初等教科書』発行

1872年(44歳)1~4月、邸内に学校を開き、家族と共に農民の子供たちを教育、『初等教科書』の効果を実験。3月、『カフカースの捕虜』完成(5月発表)、6月、四男ピョートル誕生。

1873年(45歳)3月、『アンナ・カレーニナ』着手。7月、サマーラ地方の飢餓。夫人とともに救済活動。11月、四男ピョートルがジフテリアで死去

1874年(46歳)4月、五男ニコライ誕生。10月、『初等教科書』が国民学校図書として認可される。12月、自殺を考えるほどの危機、「生の停止」を体験。

1875年(47歳)1月、『アンナ・カレーニナ』が『ロシア報知』誌に連載開始。3月、五男ニコライが生後10カ月で脳水腫で死去。10月、女児ワルワーラ、早産で生まれ死亡。

1876年(48歳)3月、パスカルの『パンセ』を読む。その内容と著者の生涯に感動。

1877年(49歳)エミール・ゾラ『居酒屋』発表。5月、『ロシア報知』誌編集主幹カトコフ、『アンナ・カレーニナ』第八編を反戦的(ロシア・トルコ戦争批判の)内容を理由に掲載拒否。トルストイ、単行出版を決意(翌年1月発表)。7月、民衆的信仰をたずねて、オープチナ修道院を訪れる。8月、ドストエフスキー、『作家の日記』で『アンナ・カレーニナ』の意義を論じる。11月、ロシア正教の誤りを論証するため、宗教研究を始める。12月、六男アンドレイ誕生。

1878年(50歳)4月、パリ滞在中のツルゲーネフに和解の手紙を出す。8月、ツルゲーネフ、ヤースナヤ・ポリャーナを訪れ、17年ぶりに和解。12月、スターリン誕生

1879年(51歳)ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』連載開始、翌年完結。6月、キエフのペチェルスキー大修道院を訪れ、ロシア正教の形骸化を自分の心身で確認。10月1日、モスクワに近い三位一体セルギー大修道院を訪れ、レオニード副院長と宗教論。教会教義との絶縁を決意。10月中旬、現在の宗教を否定し、自分自身の信仰を明らかにするために宗教論文を書き始める。11~12月、『教会と国家』執筆(91年ベルリンで発表)

1880年(52歳)1~2月、『懺悔』『教義神学の批判』に着手。3月、『四福音書の統一と翻訳』に着手。5月、6月に行われるモスクワ都心のプーシキン記念像除幕式典への参加を辞退。この式典でドストエフスキー、ツルゲーネフが講演し大反響。12月、七男ミハイル誕生。

1881年(53歳)1月28日、ドストエフスキーの死。2月2日、ドストエフスキーの死を知り、もっとも近しい人を失ったと感じる(二人は面会したことは一度もなかった)。3月1日、アレクサンドル2世、テロリストに暗殺される。春、『四福音書の統一と翻訳』を簡潔に縮約した『要約福音書』を完成。7月中旬、民話風の「人は何で生きるか」を執筆。9月、家族でモスクワに移る。10月、8男アレクセイ誕生。

1882年(54歳)1月、モスクワで人口調査参加。都市貧民の惨状を知り、『では、われわれは何をすべきか』を書き始める。3月、『懺悔』完成。『ロシア思想』誌掲載が決まるも検閲により発表できず(前編発表は84年ジュネーブで)7月、モスクワ、ハモーヴニキの屋敷を買う(現トルストイ邸宅博物館)

1883年(55歳)1月『わが信仰はいずれにありや(私の信仰)』を書き始める。3月、マルクス死去。6月、病床のツルゲーネフから文学活動への復帰を呼びかけた最後の手紙を受け取る。8月、ツルゲーネフ死去。

1884年(56歳)1月、『わが信仰はいずれにありや(私の信仰)』完成。独自の信仰を主張する。地下出版の形で広まる。2~3月、孔子、老子を読む。6月、ソフィア夫人と「深刻でやりきれない」会話の後、自分の信仰を実現するため家出を決行。しかし身重の夫人を思い出し、引き返す。翌朝、三女カサンドラ誕生。

1885年(57歳)1月、作品著作権をソフィア夫人に譲る。3月以降、民話形式の短編「イワンのばか」「人間にはどれだけの土地が必要か」「三人の隠者」など十数編が発表される。

1886年(58歳)1月、8男アレクセイ4歳で死亡。3月、久しぶりの文学作品『イワン・イリイチの死』完成(4月発表)。7月、足にけがをし、丹毒にかかる。病床で『生命論(人生論)』を着想。トルストイ主義の構築始まる。10~11月、戯曲『闇の力』執筆

1887年(59歳)6月、判事で作家のコーニから女囚ロザリアの話を聞く(後の『復活』の素材)。この頃『光あるうちに光の中を歩め』完成。12月、『生命論』完成。

1888年(60歳)3月、9男イワン誕生。4月、宗務院、『生命論』を発禁処分にする。

1889年(61歳)10月、『クロイツェル・ソナタ』完成。この頃『悪魔』を書き始め、性欲の問題に取り組む。12月下旬『コーニの冒険』(後の『復活』)に着手。

1890年(62歳)2月『神父セルギー』着手。7~8月、非暴力を主張する『神の国はあなたのなかにある』執筆開始。

1891年(63歳)9月、1881年以降の著作権放棄を宣言。9月、ロシアを大飢饉が襲う。トルストイは多くの仲間とともに食堂開設、救援物資の分配、募金等、精力的な救済活動を行う。しかしこの活動は当局に危険視される。

1892年(64歳)引き続き救済活動『神の国はあなたのなかにある』の執筆続ける。

1893年(65歳)5月、『神の国はあなたのなかにある』完成(ロシアでは発表できず、国外で発表)。トルストイ主義、ほぼ体系化される。10月、『老子』の翻訳を試みる。

1894年(66歳)8月、最後の家出に同行した医師マコヴィツキ―を知る。

1895年(67歳)2月、9男イワン猩紅熱のため6歳で死亡。8月、チェーホフ来訪。9月、国家制度を忌避するドゥホボール教徒弾圧に関する論文を書く

1896年(68歳)9月、徳富蘇峰と深井英五、トルストイを訪問。11月、『芸術とは何か』執筆

1897年(69歳)この一年を通して『芸術とは何か』を執筆

1898年(70歳)1~2月、『芸術とは何か』。トルストイ主義の体系化完了。7月、ドゥホボール教徒のカナダ移住資金調達のため『復活』『神父セルギー』出版を決意。10月、レオニード・パステルナーク、ヤースナヤ・ポリャーナ来訪。『復活』の挿絵を承諾。

1899年(71歳)3月、『復活』が『ニーワ』誌に連載開始、12月完結。

1900年(72歳)『復活』が世界的反響。1月、ゴーリキー来訪。7月、『殺すなかれ』執筆

1901年(73歳)2月、宗務院による破門決定を知る。4月、『宗務院への回答』脱稿(発禁処分)。9月以降『宗教とその本質』執筆。

1902年(74歳)1月~2月、狭心症の発作。肺炎を併発し危篤に陥る。4月上旬に床を離れたが、5月再び腸チフスにかかる。体力が目立って衰える。7月以降、『ハジ・ムラート』執筆(翌々年12月完成。死後発表)

1903年(75歳)6~8月、『舞踏会のあとに』執筆(死後発表)

1904年(76歳)1~4月、日露戦争勃発。それに反対して『悔い改めよ』執筆。6月、イギリスで発表。日本では幸徳秋水、堺利彦の共訳により『爾曹悔改めよ』の題で『平民新聞』第39号に掲載される。ほぼ同時に『東京朝日新聞』にも掲載。与謝野晶子の詩『君死にたまふことなかれ』など、反響が生じる。8月、兄セルゲイ死去。

1905年(77歳)1月、血の日曜日事件。第一次ロシア革命起こる。暴力抗争の激化を悲しむ。

1906年(78歳)6月、徳富蘆花ヤースナヤ・ポリャーナ滞在。11月、次女マリア35歳で死去。11月「ロシア革命の意義について」発表

1907年(79歳)7月、ストルイピン首相に弾圧中止と土地の所有廃止を要求する手紙を書く。『一人たりとも殺すなかれ』執筆(検閲ミスで9月発表されてしまう)

1908年(80歳)4月、「インド人への手紙」ロシアで発表。5月、死刑廃止を訴え『黙ってはいられない』執筆(8月発表)。8月、生誕80年記念。政府の監視弾圧が強まる

1909年(81歳)1月、『キリスト教徒死刑』完成

1910年(82歳)1月、「インド人への手紙」、ガンディー編集の雑誌『インディアン・オピニオン』に発表。9月6日、ガンディーに無抵抗の意義を述べた手紙を送る。9月13日、「自分だけの日記」ソフィア夫人に発見される。秋、「社会主義について」着手。10月28日早朝6時、医師マコヴィツキーを伴って家出を決行。後に娘アレクサンドラ、その友人フェオクリトワも付き添う。オープチナ修道院、シャモルディノーを経て南に向かう。31日、悪寒を覚え、リペックに近いアシターポヴォ駅で途中下車。駅長オゾーリンの宿舎で病臥。11月2日、ソフィア夫人、子供たち、弟子などが来る。11月7日、死去。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに運ばれ、9日、邸内の林に埋葬される。

1919年 ソフィア夫人、75歳で死去

おわりに

年表を見ていくだけで「えっ!?」と驚くことがどんどん出てくるのがトルストイです。

最期は家出をしてそのまま亡くなってしまったというエピソードは有名ですが、クリミア戦争の最前線で戦っていたり、ツルゲーネフと決闘騒ぎにもなっていたというのは驚きですよね。

今回参考にした伝記『トルストイ』ではこうした波乱万丈の人生を詳しく知ることができます。

「トルストイってこんな人だったのか!」と衝撃を受けると思います。あまりのスケールの大きさにただただ驚くしかありません。

ぜひ、作品だけでなくトルストイその人にも興味を持って頂けましたら嬉しく思います。

以上、「年表で見るトルストイの生涯と作品一覧~ロシアの大文豪の圧倒的スケールを体感」でした。

次の記事はこちら

前の記事はこちら

関連記事

HOME