2022/03/13

豊栄神社(山口市)

 

毛利元就公がいなければ・・

豊栄(とよさか)神社に

設置された案内を書き出すと、

「毛利元就公を祀る神社で、

もと別格官幣社であった。

江戸時代長州藩主であった毛利氏は、

萩城内に元就公を祀る社を建立したが、

幕末毛利氏の山口移鎮に際して

山口に移した。

明治二年、朝廷から

豊栄神社の神号を賜った。

社宝の元就公画像は重要文化財指定で、

その外元就公所用の武具や

遺墨を多く蔵している。

隣接する野田神社は、

幕末の英主、

毛利敬親公を祀る神社である。」

このようになります。

弱小勢力だった毛利氏、

もし、元就公が家督を継いでいなければ、

歴史の坩堝に消えていた可能性は、

98%(笑)くらいあるでしょう。

それであれば、幕末の敬親さんも

いなかったはず・・・

やはり「神」として祀られて然るべき、

毛利元就さんだと

改めて感じた豊栄参拝です。

参道

野田神社を参拝後、

御社殿が平行に並ぶ

隣の豊栄神社に移動すれば、

参拝はすぐに完了なんですが、

それでは呆気なさ過ぎ(笑)なので、

改めて参道から参拝を開始。

社頭。

「別格官弊社 豊栄神社」の

社号標を見ながらさらに進みます。

二の鳥居。

石橋。

野田神社の参道側から見た堀と石橋。

毛利元就公を祀るに相応しい、

立派な境内ですね。

反対側から撮影。

堀の先に見えているのが、

野田神社の絵馬堂です。

そして、石橋を渡る時に妻が一言、

「これ州浜紋みたい!」

確かに欄干の支柱の形が

「洲浜紋」みたいですね。

(作者の意図は違うでしょうが)

当然ですが、反対側も同じです。

石橋の手前から動画で撮影。

鳥のさえずりと木々の緑に

癒やされまくりです。

手水舎は野田神社と同じデザイン。

清浄な水を湛える手水鉢。

手水を終えて、

神門に向かおうとした時、

ここでまたもや妻の雄叫びが(笑)

「藝州郡山城趾松って書いてある!」

そう言われて初めて気付いた僕。

標柱の古さからして、

松の木は若々しいので、

二代目さんかも知れません。

元就さんの根拠地だった、

安芸高田の郡山城の松を

ここに植えた人、グッジョブです(笑)

神門。

神門右側の燈籠。

「周防巖國」と刻まれていますので、

奉献されたのは、

現在の岩国市の方のようです。

左側の燈籠。

側面を見ると、

明治十六年三月一日と

刻まれていますので、

今から140年ほど前の奉献です。

そして、写り込んだ妻は

何をしているのかな?(笑)

拝殿にて参拝。

本殿回廊と拝殿。

本殿に参拝。

透かし塀から見た本殿。

本殿アップ。

石碑

拝殿近くにあるのが、

こちらの石碑です。

「一日 一力 一心」

野田神社の絵馬殿にもありましたが、

やはり毛利元就公の遺徳といえば、

この文字と、三本の矢の教えでしょう。

改めて石碑の案内を書き出すと、

「「百万一心」と大きく文字を彫った石が、

かつての毛利氏の居城、

郡山古城跡姫丸壇の石垣にあり、

文化十三年(1816)に

それを実際に見た藩士武田泰信が、

この石を

御城守護の心柱であったであろうと

紙に写し取って、

明治十五年に豊栄神社に奉納した。

その礎石の所在はいまや不明である。

百の字は特に一画を省いて一日とし、

万の字は略字によって一力とし、

一日一力一心とも解され、

「日を一にし力を一にし心を一にす」

という衆人協同の意であるとされる。」

このようになります。

そして、

この中に書かれている

郡山城・姫丸壇」を

僕たちが訪問した時の案内がこちらです。

武田泰信さんは、

拓本をとったそうですが、

現代ならば、画像をSNSにあげて、

「いいね!」を沢山貰えた事でしょう(笑)

参拝の〆はいつものツーショット(笑)

今日の御朱印案内

無人の社務所に貼られていた

御朱印の案内。

懇切丁寧な案内図ですね!

授与していただけるのは、古熊神社さん。

数年前、

僕たちが参拝している神社ですが、

妻は全く記憶にないでしょう(笑)

 

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