タイトルのまま、くだらないことをする時間がない人生はくだらなくなるな、と感じたというお話しです。
皮肉な話ですが、僕らの人生、有意義で価値があり語るべきことだらけだと窮屈で仕方なくなるのではないでしょうか。ありていに言えばくだらなくなる。
もちろんこれは僕だけの感じ方、考え方かもしれません。
僕も効率がよく生産性の高い日々を目指して生きていたことがありますし、あらゆる物事に意味を見出し、無駄の無い人生を送ることがかっこいい大人の姿だと思っていたことがあります。
でもこないだ、今住んでいる家(空き家でした)に元々あったサンゴ礁の置物を処分すべく、この際だからと様々な形のサンゴ礁が入り乱れたそれを化石の発掘のように種類べつに解体したときに思ったんです。
「この作業は心からくだらないし得るものがないけれど、僕の人生にこんなくだらない時間があって良かったな」って。
正真正銘のバカで頭がからっぽだった時間に感じた幸せ
いや、多分ぼくはこんなニュアンスのことが言いたいんじゃない。
くだらないことに夢中になれる時間が素晴らしいとか、無駄や遠回りを楽しめる心のゆとりが僕らの人生を豊かにするとか、そんな感じのことを口にしたいわけじゃないはず。
何というか、そういう無駄を楽しむ時間楽しい!とか、無益なことに夢中になれる子どもみたいな感覚を持つ自分捨てたもんじゃないとか、そう考えている時点でうまく言えないけど現代に侵されてる感がある。
多分注目してほしいのは、僕がサンゴ礁をムキになって解体している間、後も先も考えず、憂いもストレスも不安もなく、正真正銘のバカで頭が空っぽだった、ということです。
動物に近かった。ノミと金槌で物を壊す僕は頭も心もろくに使ってなかった。
その人間としての無防備さに気付いたときに、なんとなーく幸せかもしれないと思った、ということだけを伝えたかったのです。
重要なのはその状態を意識することなく、狙わずに入り込むこと
しかし、これではまだ僕が言いたいことの芯を捉えていない。
遊びは全力で我を忘れてとか、あえて無駄を楽しもう、みたいなことを言いたいわけではけっしてないのですが、たぶん僕はそういうことを言ってしまっているのです。
重要なのは、そういう状態を意識することなく、狙わずに入り込むことだと思います。
これは遊びの部分、ゆとりの部分と認識してしまえば、意味が生じてしまいます。
「無駄を楽しんでる自分」を認識した途端、「無駄を楽しむ自分」が消え去る、陽炎を追う状態になってしまう。
瞑想をしていて、「お、今良い感じで瞑想できてるなー」って思った瞬間に瞑想状態が切れてるのと同じです。
冒頭で書いた、「有意義で価値があり語るべきことだらけだと窮屈で仕方なくなる」というのはそういうことで、それは日々の隅々に意識が行き渡ることで、かえって時間の消失を感じてしまって不幸せになる、ということ。
ちょっと飛躍して聞こえるかもしれないし、タイトルの「くだらなくなる」、はちょっと言い過ぎだったかもなと今となっては思うけど、大まかに言えばそんな話でした。
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