2008/02/17→2024/06/06 弔 2

“ブラックアウト:
記憶を失うこと。一時的な記憶喪失。 また、一時的に視覚や意識を失うこと。”

どうやら、気の遠くなるような昔話をすることになりそうだ。

なにせ17年前の記憶だ。ひどく曖昧でぼんやりとしている。何の記録もないし、名前すらもない。ただ今思えば―――あの頃は割れたガラスを触り合うみたいに、お互い血まみれだったね。
あれから海をこえ、知らない国へわたって、再びこの地へやってきた。もう二度と交わらないと思っていた。縁(えにし)かな、なんとも形容しがたい数奇なめぐり合わせだ。まるで幼い頃に海で拾った、丸っこいビーチグラスのようなあどけなさ。綺麗にくすんでて向こう側が透けて見えない。もう触っても痛くないよ。今となれば、愛おしい記憶のかけら達。でも、亡くした。

そんな混み入った事情だ。少しばかりの捏造は許してほしい。悪気はないからケラケラと笑って聞いてほしい。いつだって過去は美化されるものだ。ただし、ひとつだけ約束しよう。ここはある意味で、彼女の〝墓前〟だ。僕は正直に語ることを決して厭わない。知ってる、あなたに墓なんて似合わないって。メタファーは言葉のあやだ。先にも言ったけど、細かいことはいいんだ。

その前に、少しだけ星の話をしよう。この長い17年間のタイムトンネルをくぐるには、ある種のトリガーが必要だ。さあ、悠久のときを経て、今こそ真実を呼び戻す時がきた。これよりその為の通過儀礼をはじめよう。それでは2008年宇宙の旅へ。よーい、ブラックアウト。


宇宙では、光が1年間に進む距離のことを「1光年」という。光って、実はめちゃくちゃ速いスピードで進むんだ。1秒間になんと、地球一周旅行を7~8回しちゃうくらい。ものすごく速いから、光はあっという間に遠くまで行ってしまう。だから、逆に考えると「1光年」先って、ここからめちゃくちゃ遠いところにあるんだ。ざっと計算してみると、1光年先(1年)の距離は約9兆4600億km。そして17光年先(17年)になると160兆8200億km。ぜんぜんピンと来ないよね。簡単に言うと、それくらい意味わかんないくらい、はるか遠くで息づいている昔話をしようとしてるってことだよ。ちょっと難しい言葉でいうと〝時空幾何学〟っていう考え方なんだけど。いま流行りの言葉でいえば〝世界線〟とかね。まあそれはさておき、そろそろ天文学的な観点から、できるだけわかりやすく結論を言おう。

たとえばこの地球から17光年先にある星で、有名なのはアルタイル星(わし座α星)。星が好きな人なら、聞いたことがあるかもしれない。そう、七夕物語で出てくる、ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)だ。天の川の話なら、きっと馴染みも深いよね。じゃあ、これから望遠鏡を覗いて、わし座の恒星アルタイルを天体観測してみよう。運よく見つけることができたなら、そのしろがね色の星の輝きは、今から約17年前の光を眺めていることになる。つまり、その星は時空を超えて存在しているんだ。こちらの世界とあちらの世界では、まったく異なる時間と空間で動いているってこと。そしてこの望遠鏡から見えるその小さな光こそが、あちら側の世界へとさかのぼるための、唯一の方法なんだ。
ちょっと長くなっちゃったね。それじゃあ、準備はいい?これから、はるか17光年先で煌々と瞬いている、タイムトンネルの向こうで息づいている、ちいさな世界線のドアを開けよう。これでようやく17年前の過去へアクセスできるようになるんだ。きっと望遠鏡の向こう側には、あの日のままの空が広がっているはず。星の話はここで終わり。ご清聴ありがとう。それでは、いってらっしゃい。


2008年。冬―――。
世界はホワイトアウトした。

原色の空。翳るひつじ雲。分度器の観覧車。
真っ暗なコスモス。止まったシャボン玉。水面の乱反射。
そして電線、電線―――。

トイカメラの向こう側にある景色は、こんなにも寂しくって、君の目にはきっと、世界はこんな風に映っていた。
写真は自分自身の〝投影〟だ。ここは彼女のファンタジーだ。ひどく解像度の低い世界にしばし思いを馳せる。幽玄なる夢幻へ誘われて。

2008年2月18日。
眼前に見えてくるのは、紛れもない、あの白昼の葛西臨海公園だ。あれはよく晴れた、風の強い日だった。噴水のある駅前のロータリーは、びゅうびゅうと強い横風に晒されている。きっと、はじめてのデートには不向きだ。ただその日はデートとは少し違った。その空模様は、いささか平成期の僕のSentimentalisme(サンチマンタリスム)に影響した。そうつまり、僕たちの初めての出会いはひどく感傷的なものであった。

噴水の前で黒い髪をなびかせながら、一人の女の子がそこに立っていた。遠くから見える彼女は、自然と口元が笑っているようにも見えた。口角の上がったアヒル口。切れ長で、カラーコンタクトではない大きな黒目。足元には冬のブーツを履いている。寒空の下で、彼女はコートのポケットに手を突っ込んだまま、笑って僕に「はじめまして」と挨拶をした。今まで会った女の子とはなにかが違った。はじめて出会った時からそう感じていた。それから、僕たちは一緒に公園を歩きはじめた。

初めて会うキッカケとなったのは、彼女からの誘いだった。「あなたの写真が撮りたい」と言われた覚えがある。へえ、はじめて会うのにそんな誘い方ってあるんだ。大体女の子って、ハンバーガーが食べたいとか、カラオケに行こうとか、そんな風にカジュアルに言うじゃん。でも、それだったらきっと僕たちは出会ってなかったね。当時の僕はひどい鬱に苛まれていて、とても友人知人に会えるような状態ではなかった。でも彼女は少し違ったから、僕も興味を持った。だからこそあの日、偶然に出会えたのかもしれない。

葛西臨海公園は彼女のリクエストだった。なんでもお気に入りの場所だそうだ。散歩中、僕らはなんだかちぐはぐな並び方で公園を歩いていた。彼女はまるで歩調を合わせない。勝手にてくてく歩いていく。まったくデートに見えないところが、良い。しかもお互いにぜんぜん喋らない。初対面でこんなにも会話がないなんて、不思議なものだ。でもなんでだろ、ミーコはニヤニヤして歩いてる。そして彼女は、おもむろにリュックからトイカメラを取り出し、不意にその瞬間———撮った。その一瞬を切り取る、彼女の撮影スタイルは独特だった。彼女は、片手でぱっとカメラを出しパシャッと撮る。モーション早っ。そのコンマ3秒くらいの身のこなしは、なんというか僕には少し雑に見えて・・いや、訂正しよう。彼女はとても〝感覚的に〟シャッターを切る。でもその方が、後から写真を現像する時にとてもいい雰囲気になっていて、それが楽しみなのだそうだ。なんていうか、あんまりいないよね、君みたいな子。

途中の売店で、瓶のお酒を買った。初対面で白昼堂々、いきなり酒をやる気だ!ミーコらしい。ちなみに彼女は「アル中」と言われるとすごく嫌がるので禁句(タブー)なのである。大きな橋を渡って、土管のトンネルの横を抜け、海の見える防波堤にたどり着いた。そして海を見ながら、ふたりでお酒を飲んだ。東の空にはディズニーランドが見える。ディズニーランドよりもここ(葛西臨海公園)の方が、君には似合ってるね。彼女はふと思い出したように、少し遠くに離れて僕の写真をパシャパシャと撮っていた。

彼女には自傷する癖があった。切っているのがどこの部位かは知らない。ただ「あたし、手首じゃないんだ」って言ってた。きっと、誰にも見えないところを切っていたのだと思う。そういうところがある種、救いようのない彼女の性格を表していたように思う。自傷癖のことを知っていた僕は、その日彼女に会う前にいくらかの買い物をしていて、お酒を飲みながら彼女にそれを渡した。

「これ、あげる。」
「なーに?」

それは赤色のサインペンだった。身体を切りたくなった時に、このペンで線を引いてみるのはどうかな?血が滲むように見えたら、心が落ち着くかもしれない。そんな簡単なことで気休めになるとは、到底思えないけれど。

「もし、また切りたくなった時は、このペンを使ってみて」
彼女は、僕にありがとうと言った。そしてそのペンを「命のペンだ」と喜んでいた。彼女は普段、感情をうまく表に出せない。本人もその事をよく自覚していた。それでもお酒を飲んだときだけは、感情が出てしまう、そして時として大切な人を傷つけてしまう、という。彼女にとってお酒は、感情を外へ出すために必要だが、ときに制御不能となる、ある種の〝劇薬〟なのだ。

帰りの水族館で、彼女はペンギンのお腹をパシャパシャ撮った。水槽の下にしゃがみ込んでカメラを構えていた。彼女のフィルターごしに写る水面は、まるで天の羽衣のように美しく光を乱反射させた。ゆらゆらきらきらして綺麗。あたしもあんな風に自由に生きられたらいいなって。そう笑っていた。

そうだあの日、彼女の写真の一枚でも、僕が撮ってあげれば良かったのに。肝心なときに気が回らない。自分ばかり撮ってもらって、彼女のことは撮らなかった。そしてその日に限らず、僕たちは何でふたりの写真を一枚たりとも残さなかったんだろうね?あれだけ共にあやふやな時代を生きていたのに。きっと僕たちが会うのはいつもふたりきりで、そこに名前すら持たない関係だったからかもしれない。悲しいかな、そしてそのシャッターチャンスはもう永遠に訪れることはないのだから。

僕たちは、葛西臨海公園で待ち合わせて、葛西臨海公園で解散した。

そして一年後―――。2009年。春。
生き永らえた僕と彼女は、ふたたび再会することになる。そう、あれは思い出せば狂おしいほどに咲き乱れた、あの桜の下だった。

2008/02/17→2024/06/02 弔 1

「あなたのお姫様は今ごろ誰かと腰を振ってるよ」

あの日、僕はふかく傷ついた。彼女はひどく酔っていた。いつものようにお酒に溺れては、ケラケラと笑いながら。いたずらな笑みで僕にその言葉を浴びせた。そんなの、わかりきった事だ。きっと今、僕のお姫様は誰かと腰を振っている。言われなくても知ってるさ。それならばいっそ、この傷口をナイフでえぐられた方がマシだ。
こうしてこの言葉は、僕にとって忘れられない傷痕となった。なんとも痛々しい記憶だ。それでも、いつかはすべてが風化する。あの血の色でさえも、鮮やかさを失い、色褪せては記憶のフィルムに飾られる。人は強いものだ、そして儚いものだ。

しかしあれから十数年の歳月を経て、大切なものを失ったあと、僕はとある事に気付きはじめた。結局のところ、あの日の僕は〝僕自身〟にしか目を向けられていなかったのだ。自分が傷ついたことばかりに囚われて、肝心の彼女の気持ちや傷みなど、何ひとつ知ることもなく―――あの夜、はじめて彼女を抱いた。
冒頭の彼女の言葉は、果たしてどういう意味を持っていたのか?彼女の真意は?僕に何を伝えたかったのか?そして思えば、あの時どうしようもない僕のそばに居てくれたのが、なぜ他の誰でもない彼女だったのか―――。あの夜のことも、今となっては迷宮入りだ。寂しがりな彼女の悪ふざけは、既にふかいふかい樹海の森へと迷い込んでしまった。

そして今、僕はすべてを思い出す。ひょっとしてあの日、彼女はもう一つ、別のメタファーを心に隠し持っていたのではないか。あの〝歌〟の本当の意味を―――僕に伝えたかったのではないか。きっと彼女は、ただただ立ち尽くしている僕を抱きしめてくれようとしたのではないか。そうつまり〝私の部屋へいらっしゃい。甘いお菓子をあげましょう。抱いてあげましょう。〟と。人は弱いものだ、とても弱いものだ。

彼女は死んだ。もう彼女はいないんだ。フィードバックから明けていくこの世界がさ、きっと、生きづらくっていっちゃった。あの日、お前の言葉でふかく傷ついたんだぜ。それなのに、なんでだろ。あの日よりもずっとずっと、心が空っぽだ。

すべては遅かったのだ。気付くのはいつだって、何もかもが終わった後だ。なんの比喩も浮かばない。あまりにも早逝な彼女の生涯を、ひとつの比喩で表すことなど僕にはできない。だからせめて、思いを馳せる。今にも消えてしまいそうな、この小さな記憶のともし火から、今こそ真実を呼び戻すのだ。

吹けば飛ぶようなラブホテルの一室でのワンシーン。ベッドの上で鏡越しに横たわっている。裸の僕たちが抱き合っている。彼女の背中には見慣れない、異国の文字が彫られている。隠し持った自傷の痕が、身体のどこにあるのか見当たらない。彼女の、舌に開けたピアスが触れる、気が触れる―――。そういえば、いつか彼女が言ってた。好きな人以外には絶対、口でしてあげないんだって。思い出したよ。そう気付いた時には、幾星霜。もう彼女はこの世にいないんだ。そうして自分の愚かさに、ただただ絶望する。

〝歌〟は終わった。もうやり直すことも、元に戻すことも、謝ることもできない。これはある種の懺悔に近いかもしれない。写真の中の彼女は笑っている。きっと避けては通れない。あの日、彼女に傷つけられた以上に、僕は彼女のことを傷つけた。それは紛れもない事実だ。それでも、彼女はもういないし、僕は生きている。死者への悼みは、ある種のエゴイスティックな感情とも言える。ならば、いっそ全てを受け入れよう。それでも僕は、僕のやり方で彼女を弔うことしかできないのだから。

「ねえ、あたしのこと、書いたでしょ。」
「あの続き、書いてよ」

彼女の名前はミーコ。今、彼女の言葉を思い出す。しみったれていると思うかな?泣きながら笑うから大丈夫。ふたりの仲だ。細かいことは気にしなくていいんだ。きっとミーコは、お酒を飲みながらケラケラと笑って許してくれる。僕がどんなに無様でも、ありのままそこに居てくれる。彼女はそういう女だった。

これより僕の長い長い、彼女へと手向けた〝弔辞〟をここに公開する。見送ることもできなかったんだ。せめてもの餞(はなむけ)だ。それくらい構わないだろう?でも、今度はちゃんと最後まで書くから。ちょっとだけ時間がかかるかもしれないけれど。約束だ。

2009/04/1*→2024/05/27 霞 3(結)

夜を翻して朝が来た。

始発の相鉄線で親友と別れ、僕たちは〝ふたりきり〟になった。手をつないだまま人気もまばらな電車に乗り、僕の家まで向かう。霞がかったうす明るい朝が、僕たちの頭上に直ぐそこまで迫り来るのがわかった。さあ、魔法が解ける前にうちへ帰ろう。

せまい僕のワンルームに、エリカを連れて帰ってきた。殺風景なこの部屋は、相変わらずモノがなくて取っ散らかっている。先ほど受けた暴力とお酒のせいで、僕の脳味噌もずいぶんとバグっていた。なんでも自分の部屋と自分の精神状態は、ある種の相関関係にあるらしいよ。いやしかし今そんなことはどうでもいい。それに元々、僕はそんなにお酒が強い方ではないのだ。一方、エリカはおそらく酒が強くて(世の中には酒が強い女が多すぎる)、割と意識もハッキリしていた。ふたりきりだし密室だし、たとえば「眠い」と言ってみたり、酔ったフリをしてもいい頃合いなのに。さすがは看護師。変なところでしっかりしている。悪くない。見え透いたあざとさで甘えてくる女よりも、土壇場でもしっかりしている女の方がどこかセクシーで、悪くない。

エリカは僕の家に来て、本当に左眼の手当をしてくれた。社交辞令ではない。彼女は約束を守る女だった。うす暗い部屋の中で、彼女は腫れた僕の左眼を触ってくれた。なぜだろう、この空間こそがある種の〝純潔〟を保っているような気がした。純潔??今しがた初見でGカップを揉みしだいた僕に、そのような戯言をはく資格はない。しかしその純潔もきっと今日かぎりのものだ。この朝の魔法の中でしか存在しえない。やがてこの薄闇の向こう側で消えてなくなってしまう。ちゃんと病院に行った方がいいよ、と彼女に言われたような気がする。正直あまり覚えていない。脳味噌のバグだ。

「ねえ、コンドームは?」
「ごめん、持ってないよ」
「待って。私、持ってるから。」

彼女はどこかクールだった。それはセックスの際にも同じだった。冷めているのとは違う。いついかなる時も冷静さを保ったまま、という印象だった。僕はというと、悲惨だ。散々な目にあい、左眼もほとんど開いていない。ヘタすると失明したかもしれない。脳味噌は酒と暴力でバグってる。明日には記憶がほとんどないかも。クールな彼女は半裸になったまま、バッグの中からコンドームを持ってきた。でもエリカ、なんでそんなの持ってるの?ナースだから?それともよく遊んでて・・まあいい、アタマもはたらかないし、この際そんな事どーだっていい。満身創痍でもやることはひとつだ。行きつく先は天国か地獄か。それすらもうわからない。検討もつかない。そんな状態でも、人はセックスをする。これがはるか彼方から変わらずに、人類が生存してきた自然の摂理だとするならば、それを美しいとさえ思う。

カーテンの外はもう完全に明るくて、時刻は朝の9時を回っていた。酒に酔っているせいか、セックスが終わりを迎えない。おかしいな、こんなはずじゃないのに。この頃の僕は、お酒を飲むと性交に失敗するところが多々あった。大丈夫だよ、とエリカは僕を慰めた。酩酊したまま何度か繰り返しているうちに突然、

「ピンポーン」

チャイムが鳴った。まるでこの世の終わりみたいな音がした。誰だこの大事な時に。それにまだ朝一だ。勧誘ならお断りだ。さっさと帰れ。僕はチャイムを無視してエリカと行為を続けることにした。それでもしつこくチャイムは鳴り続ける。ピンポーン、ピンポ、ピンポーン。ピンポーピンポピンポン…きっと闇金でもそんなにしつこく押さないだろう。招かれざる刺客によって、さすがに部屋には不穏な空気が流れはじめた。エリカは「なに・・?」と怪訝な顔をしている。そこで思わずハッとした。遅かったのだ。今日、僕たちは決して自宅などに帰ってくるべきではなかった。

その日は前職の人事の人が、この部屋の退去立会いに来る日だった。その約束が今日の朝9時だ。当時、僕は前職の会社の管理物件であるマンションに住んでいて、いわゆる退去前だったのである。ねえ、つまりこれってジ・エンドってこと?馬鹿な。ここはなんとか居留守を使って難を逃れたい。できればセックスは最後までしたい。こんな鼠取りみたいな結末で終われない、終われるはずもない。今この状況で服を着て外へ出れば、きっと夢から醒めたように情事は終わる。さながら全雄が泣き叫ぶ展開となるだろう。

それでも世界の機序は留まることを知らない。僕のこのちいさな事情?情事?など関係あるものか。すべてお構いなしなのだ。裸でベッドに横になった僕たちをさらなる惨劇が襲った。招かれざる刺客がありえない行動に出始めたのだ。

ガチャ、ガチャガチャ、ガチャン!(ドアを解錠する音)

は?ジーザスクライスト。その刹那に、目の前が真っ白になった。それはカーテンから覗く朝の光が真っ白だったとか、彼女の柔肌が気持ちよくて真っ白だったとか、そんなちゃちなもんじゃ断じてねえ。この場で起きている情事、その亜空間がいま何者かによってこじ開けられた。幽☆遊☆白書かよ。ゲートキーパーかよ。よもやこんな形でセックスの邪魔が入るなんて・・おそらく地球上で誰も想像できないだろう。もし神が存在するのなら―――もはや冒涜と言われても構わない、控えめにいって「ふざけるな」と言いたい。そう言えば、身につけていたはずの十字架ネックレスが・・ない。どこにもない。セックスの際に外したりしないのに、なぜだ?・・そうか、あの時大柄の男に首を絞められた時、地面に落としたのだろう。OMG. だとすれば、あの時すでに神は僕を見放していたとでもいうのか。答えはノーだ。信仰心のないものに、神などあらかじめ居ないのだから。

無常にもドアが開く音がした。まさに冒頭に出てきた〝凸〟だ。あれだ、バラエティ番組でよくある、寝起きドッキリ企画と同じパターンだ。どんなドッキリやねん。冷静に考えてみてほしい。いくら立会いで不在のため鍵が開かない、そして鍵を持っているからといって、勝手に人の家のドアを開けるだろうか?法的にやばくないか?まさに鬼畜の所業だ。こちらはセックスの真っ最中なんだよ。しかし相手は容赦なく部屋に凸してくる。その瞬間、ベッドの上にいる僕は裸のまま大声を出し、室内に入ってくる輩を決死の思いで制した。

「ちょっと待ってください!申し訳ないのですが、今怪我をして寝込んでいるので・・日程を変えてもらえませんか?」
声を聞いた相手は少し驚いた様子だった。いや、こっちの方が驚きを通り越して怒りしかない。

「すみません、でもそういうわけにもいかないんですよ・・」

会社の人事の人は困った口調で言った。そして日程の変更を拒否してきた。簡単に見せてもらうだけで構いませんので、と押し切られた。おいおい、押し強すぎんか?僕は、押しに弱い女などではない。ともあれこのまま引き下がる気はなさそうだ。エリカはなにがなんだかわからない様子で、えっえっいまなにが起きてるの?と目を白黒させていた。さすがのクールな彼女もこんな展開に動じないはずもない。やむを得ず、僕は観念して服をまとい、地獄の扉を開けた。

その光景は明らかに異質だった。スーツを着た20代くらいの若い人事の男が、部屋の中に入ってきた。部屋は酒のにおいで充満している。僕の左眼は痛々しく真紫色に染まっている。明らかに暴力的なホラー映画の一幕を思わせる。そこにニーハイソックスを履いたままの半裸の女が、布団をまとってベッドに横たわっている。エロティックな映画の一幕を思わせる。まるで正気の沙汰ではない。警察でも呼ばれないか疑わしい光景だ。僕はトラブルに巻き込まれ、彼女に看病してもらっていたと釈明した。空き巣にでも入られたようなぐちゃぐちゃの部屋を、彼は項目ごとに細かく点検し始めた。システマティックで感情がないようだった。もはや僕たちは黙ってベッドの上で呆然とするしかなかった。人事はちゃんとそのベッドの下まで点検していた。

「えー、それでは問題なさそうなので、これで立ち会いは終了とします。」

こんなめちゃくちゃな部屋の中で、なにが問題でなにが問題じゃないと言い切れるのか。この状況下で凸ってきて、一体どれだけハートが強いのか。言っておくが僕には絶対にできない仕業だ。兎にも角にも、なんとか無事に立会いは終了し、彼は何事もなかったかのように普通に去っていった。嵐よりも突然で、泥棒よりも迷惑だった。もう二度と来ないでね。回想してみれば、エリカは本日僕が殴られるシーンと家に凸られるシーン、二度も暴力的な一部始終を目の当たりにしてポカーンとしていた。とても先ほどの〝続き〟をするような雰囲気ではなくなっていた。

「私、帰るね」

さすがの彼女も痺れを切らして言った。この場所に自分がいる理由はもう存在しないことを悟ったかのようだった。僕もそれを受け容れるほかなかった。というよりも、僕ももう脳内バグを通り越して寝たかった。はじめて出会ったふたりの間で、一夜にして起きたこの激昂と狂熱のストーリーを、わけのわからない宿命がさざ波のように洗い流していった。彼女を駅まで見送ると、その帰りに親友からちょうど電話がかかって来た。

「あの子とあの後、どうなったの?」
「ああ、持って帰ったんだけど」
「やっぱり?笑 epiすごいね〜 で、どうだった??」

到底説明する気分にもなれなかった。気が遠くなりそうな夜、いや朝だった。半日にして世界を股にかけるほどの大航海をした気分だ。鏡を見れば、殴られた左眼のアザが大きく広がっている。もう何ひとつ思い出したくなかった。エリカとはそれっきりで、今どこで何してるのかも知らない。きっとどこかですれ違っても、お互いに綺麗さっぱり忘れてしまって気が付かないだろう。

断言しよう。一夜かぎりというものは〝あまい嘘〟などではない。良いところも悪いところも、あまんじて受け入れる覚悟が必要だ。それは男と女ではまるで違うタイプの覚悟だ。言ってみれば、女は〝忘却〟、男は〝懺悔〟。大体そんなところだろう。

今、あえて過去の自分に問いたい。結局、どこだったんだろうね?霞がかった夜明けのハイライト。自問自答しては、あの頃の自分にアクセスしてみるけど。どうやら当時の僕は左眼が霞んでいて、あの朝の世界線が見当たらないらしい。

今も変わらずに存在してくれている親友ヒロシへ

※タイトルの霞(かすみ)は、エリカの名前、漢字一文字を引用させていただいた。一片(ひとひら)の真実を込めて。

2009/04/1*→2024/05/27 霞 2

ちょっと待ってくれ。勘弁してくれ。

僕はいま恋愛の話をしようとしているんだ。このバッチバチの展開にほとほと呆れてしまう。今そういう気分じゃないんだ。もっとふかふかのソファーのような〝夜の底〟についての話をしたいんだ。それに百歩譲って「お前、表出ろ」ならまだしも「お前ら、表出ろ」だ。なんで複数形?どうして、何もしていない僕がその対象に??それでもお構いなしに状況はエスカレートしていく。ついには表で大柄の男と親友が喧嘩をはじめてしまった。親友よ、いくらなんでも相手を選べ。相手のそのガタイ、絶対に格闘技経験者だろう。事実、相手は柔道の有段者だった。体重も階級も倍ほど違った。

これはあかんやつやと思った僕がその場に割って入ったとき、悲劇が襲った。なぜか大柄の男のストレートがスローモーションのように、僕の顔面左眼を捕らえた。もんどり打って倒れる僕。f**k. あり得ない。なんで僕が殴られているの。さっぱり訳がわからない。あれ?左眼の感覚がおかしい、あんまり開いてない。そしてふと気付けば、大柄の男に背後から首を締められていた。馬鹿みたいな怪力だ。ロックされてとても敵わない。えーなにこの展開、おれここで死ぬの?うせやーん。なんとか親友が僕を救出してくれて事なきを得たが、辺りは騒然となった。そして僕が負傷してからか、その場は急にクールダウンしていったように思えた。

「もう止めよう」「楽しく飲もうぜ」

そんな雰囲気に戻っていく中、親友がなぜか急に奇行に出ることになる。大柄の男に対して、土下座をし始めたのだ。おそらくこれ以上、僕に迷惑がかからないようにやったのかもしれない。彼なりのケジメだったのかもしれない。理由はわからないし、わかりたくもなかった。でも、ちょっと待てよ親友。それじゃ僕が殴られた意味がこの世からなくなってしまう。だから、立て。そんなくそみたいな男に頭を下げるな。もしまたなんかイチャモンつけて来るようなことがあったら、俺が殴られてやるから。だからお前が悪くないのなら、ソイツに謝るな。そう言って僕は、親友の土下座を帳消しにした。

事態はおそろしく収束していった。あんなにも暴力的だったワンシーンから、平穏なワンシーンへと切り替わっていく。編集がおそろしく美しい脚本のようだ。店主も何事もなかったかのように笑って過ごしていた。ただ僕の左眼だけが深刻化していた。左眼球は血走り、目の周りは真紫色に変わって腫れ上がり、半分閉じていた。こうして夜の底には、この先の展開がまったく想像つかない、ある種の魔物が棲んでいるのだ。ところが、どうやら最後に魔物は僕に微笑んだらしい。その一部始終を見ていた女の子は、なぜか僕のことがひどく気に入ったようだった。隣に座った彼女は、僕にこう言った。

「ねえ、友達守っててかっこいいね。」
「ありがとう。名前なんていうの?」
「◯◯エリカ。」
「なんでフルネーム?笑」
「別に。大丈夫。笑」

彼女の名前はエリカ。名字と名前がセットのような響きの氏名だった。年齢はやはり20代前半。間近で話すとマジか、まじまじと見ればざっくりと空いたデコルテからたわわになった胸元が、およそF〜Gカップはあろうかという印象だった。悪い刺激の後には、ちゃんとあまい刺激が待っている。人生、こうでなくちゃ。ありえない夜のフェト(祭り)を派手に踊るには、体力と精神力、そしていくらかの酩酊が必要だ。

「その目、大丈夫?」
「大丈夫・・ではないかな」
「私、看護師だよ」
「マジで?手当てしてくれるの?」
「いいよっ」

〝獲物〟はとらえた。そう確信した。

エリカは神奈川の大きな病院で、循環器科の看護師をしているそうだ。意外と看護師の夜ひとり飲みは都心でも多い。夜勤で生活リズムが逆転したりするからだろう。それに看護師は意外と出会いが少ない。職場では医師と病人くらいしかないから、羽目を外すときは割とはっちゃける印象だ。僕も何人もの看護師のプライベートな面を見てきたけど、彼女達は決まって手にネイルをしない。それなのに足にはネイルをしている。そういう面白い性癖がある。僕はそういった、一見誰も気が付かないようなパターン化された生活様式を見つけるのが得意だ。恋人の有無は聞いていない。なぜか?答えは〝やぶ蛇〟だ。僕に食いついている時点で、もうそんなことを話題として聞く必要もなくなったからだ。

夜中の3時を過ぎた頃、BARは閉店して僕たちは揃って店を出た。店主と別れ、僕と親友とエリカの3人になった。それから3人でカラオケボックスに行った。その中でのことは、ほとんど覚えていない。ただもうその時完全に〝仕上がって〟いた僕たちは、親友がトイレに行っている間に濃厚なキスをした。そしてFだかGだかはあるであろうたわわな胸を揉んで触った。Gだったら今夜は自慰じゃないな。するとエリカが、

「もーう・・ここじゃダメだって。友達戻ってきちゃうよ?」
「じゃあ、この後ウチ来る?」
「行くっ」

彼女とて完全に「その気」なのだ。いつもこの状況になると親友は察して先に帰り、僕は女の子をお持ち帰りする。なぜなら女の子と僕がこれからどうなっていくのか、親友もよーくわかっているからだ。親友はいい意味で〝イカれて〟はいるが、実はとても理解のある、心やさしい親友なのだ。いや、そもそもイカれているのは僕の方かもしれない。一夜にしてBARで殴られ、女の子に看病され、胸を何度も揉み、これから家にお持ち帰りしようとしているのだから。まさか、これから更に起こる、シュルレアリスムな物語の結末など知るすべもなく。

2009/04/1*→2024/05/27 霞 1

最低な朝だ。まさか〝セックスの最中に知らない人が凸してくる〟なんて。

そんな世界線、一体誰が信じるというのだ?しかし、その〝まさか〟はある日突然やってきた。奇しくもたった一夜にして起きた、おったまげたストーリー。もし人生という一冊の本があるとするならば、次の頁をめくるまで僕は知る由もなかったんだ。なんともクレイジーな夜の底が事実、存在するなんて。さあ始めようか、霞がかった夜明けのハイライト。

あの日のことは忘れもしない。当時の僕は26~27歳で、鬱病で仕事も辞めたばかりだった。渋谷のCLUBやBARに入り浸っては、酒ばかり飲んでいた。誰しもの人生に〝闇堕ち〟という時代があるならば、その時が正にそうだ。その日も親友とふたりで性懲りもなく夜遊びをしていた。夜遊びというより〝火遊び〟といった方が適切かもしれない。毎日がまるで轟く打上花火のように、激しくもはかなくて後には何も残らなかった。朝には小便になる、それも悪くない時代だ。親友はいい意味で少し〝イカれた〟ヤツだった。彼はいつも〝より強い〟酒を好む。ウイスキーはオン・ザ・ロックで。その方がコスパよく酔えるからだそうだ。手にはいつも鬼ころしを持参している。なるほど、狂ってて良い。そもそも、酒はうまいから飲むのではない、酒は酔うために飲むのだ。

一緒に浴びるほど酒を飲み、手当たり次第に女の子をナンパした。相手はTGCの有名モデルやまさかのJCギャル、ここに書けないようなやばい女だったこともしばしばあった。僕と親友には、ちゃんとした役割分担があった。僕が街やCLUBで見つけた女の子に声をかける役。そして飲み屋やカラオケボックスに連れ込む。親友はナンパが下手だから、道化となってその場を盛り上げる役。しかしながら、彼がいないとナンパは成立しない。僕は道化になれないから。このシーケンスで僕たちに落とせない女はいなかった。狙った〝獲物〟は確実に仕留めた。互いに躁状態でテキーラをガブガブ呷るほど、おぼろげで危なげな―――そんな綱渡りの夜を、僕たちはゲラゲラと笑いながら生きていた。

ふたりの遊び場はいつも〝渋谷〟だ。ただ、その日の舞台はなぜか横浜の郊外だった。「いま、二俣川のバーナーズってBARで飲んでるから、epiもおいでよ」親友からお誘いがあった。眠れないこの僕が、この厚意を断るはずもない。すぐさまシャワーを浴び、表参道でかけたいい感じのパーマをセットして、ハワイアンジュエリーの十字架ネックレスを身に着け、二俣川のBARへと向かった。(因みにそのBARは、今はもう閉店している)

店に着くなり、へべれけの親友とウェーイ。ヤーマン。調子はどうだ?ほとんど毎日会ってるけど。店はアメリカンな雰囲気で、照明は暗めのBARだった。いい意味で立ち飲み屋のような、ちょっと雑多な雰囲気がある。誰彼かまわず話しかけられるような、そんなアナーキーな空間が心地よい。親友はいつも僕をいいところへ誘(いざな)ってくれる。

カウンターには、髪をおっ立てた大柄で強そうな男が目に入った。見た感じ、常連のようだ。大きな声がワイワイと店内に飽和している。親友はバーテンダーの店主と顔見知りのようで、カウンター越しに飲みながら話していた。奥には黒髪でショートカットの女の子がひとりでカクテルを飲んでいた。僕の記憶が確かならば、その子は宇多田ヒカル似でおそらく20代前半、胸はそうだな・・多分E〜Fカップくらいか。黒いニーハイソックスを履いていた。店内の流れをざっと俯瞰した僕は、今日の〝獲物〟をその子にすることに決めた。

親友は、僕のことを〝渋谷のチーター〟と呼ぶ。僕が女の子を見つけてモノにするまでの時間があまりに早すぎるため、親友が比喩的につけたものらしい。なんとも。確かに、当時の僕には渋谷がサバンナすぎた。これも僕のお気に入りのメタファーだ。しかし今日の舞台は、横浜。ある意味〝アウェイ〟だ。少し慎重にならなければならない。

カウンター越しの店主と親友と僕の3人で一緒に飲んだ。僕は親友の隣に座り、少し離れたところにその女の子がぽつんと座っていた。僕は座る位置に余念がない。イケてない席に座るとその日は絶対にタコ(0)だ。キーマンは誰だ?トラブルメーカーは?あの子に声をかけるタイミングは?脳内のリソースをフル活用しながらビールを飲んでいた矢先、事件は起きた。

どうやら髪をおっ立てた大柄の男と、僕の親友が揉めている。経緯はわからない。まあ酔いの席だ、よくある小競り合いだろう。それに僕の親友は割と喧嘩っ早い。こんなの慣れっこだ。まあまあ一旦落ち着こうと仲裁に入ったところ、僕の説得もむなしく大柄の男は僕たちにこう言い放った。「おい」「お前ら、表出ろ」。

2014→2024/05/23 罠 2

「ウチの犬、見に来る?」
「えっ?いいんですか?」

低俗な誘い文句になってしまって申し訳ない。愛犬を引き合いに出すなんて。僕はどうかしてた。普段は使わない誘い文句なんだけど。でも実はこれ、女の子にとっては助かる、うってつけの大義名分なのだ。“最初のデートでついていくビッチじゃない、でも犬が見たいから行こうかな”と。僕は「ウチ来る?」でも「セックスする?」でも別に構わない。多分それでも大丈夫。でもそれではあまりに紳士じゃない。僕はいかなる時でも紳士でありたいのだ。

動揺を隠しながらも、彼女は迷わずに食いついてきた。そんなの、OKに決まってるじゃん。この時間まで一緒にいる=“今夜は帰りたくない”フラグが立ってるじゃん。でもこの長女特有の白々しい素振りが、僕は嫌いじゃない。私はそういうつもりじゃ・・みたいな怠さが嫌いじゃない。僕は基本的にガールフレンドを自宅に招かない。しかし彼女はわざわざ京都から来てくれた、熱心な僕のファンだ。僕のことを尊敬しているとも言っていた。それに対して、僕も彼女を正しく招聘する必要があった。

二人でコンビニに入り、飲み物やお酒を買い漁る。この泊まる前のコンビニの買い物がとてもエロティックなひと時だと、僕は思っている。もう浴びるほど飲んできたのに、甘く飲みやすい酒を追加する。既に酔っているのに?酔いが冷めない予防線を張る。そして更に泥のように酔うつもりなのだ。そうだ、メイク落としは?コンタクトの洗浄液は?服は僕のを貸すよ、ちょっと大きいかもしれないけど。この時間がしらじらしくて癖になる。

とうとう僕の家まで来た。彼女と会う前からすべての着地点を想定していた。今宵、彼女が僕の家に来るであろうということは、既に僕のシナリオ通りであった。冒頭の彼女の言葉を借りるならば、彼女はまんまとメンヘラホイホイにかかりに来た。いや待てよ、彼女は自らかかりに来たのだから・・もしかしてここは逆メンヘラホイホイなのかもしれない。捕獲されたのは僕の方なのかもしれない。まあどちらにせよ、行き着く先は同じところだ。

僕は部屋の蛍光灯を付けない。白光は気分を冷めさせる。赤くなった女の顔面をあらわにしてはいけない。紳士のマナーだ。こだわりの間接照明が鏡の裏から部屋全体を灯す。どこかのBARの個室のようなプライベート空間だ。愛犬のトイプードルがウロチョロしている。そして僕の部屋にはソファーがない。だからベッドに座ることになる。妙に現実感のない間接照明の中で、ベッドにふたりで座って瓶のままお酒を飲んだ。他に誰もいない。二人だけ。後できることはひとつしかない。逃げ道ももう残されていない。互いに知っている。次第に口数が減っていく。彼女の脈拍はピークで(僕はよく女の子の脈を取る)、脳裏にはもはやその後の展開しかなかった。ふいに僕が彼女を抱きかかえて引き寄せる。タイツを履いた彼女の太ももを僕の膝の上に乗せる。そして、ひどく、ゆるやかに。彼女は思考停止した。終始お姉さん気質で饒舌だったのに。今は言葉を失って目は虚ろな、ただのメンヘラちゃん。仕上がってるじゃん。そう今夜だけ、ふたりで闇堕ちするのも悪くないかもね。

セックスの最中、彼女はたくさん甘えて僕のことを呼んだ。呼び方にほとんど呂律が回っていなかった。お酒のせいもあると思うけど、まるで赤ちゃん言葉のようにサ行とタ行がうまく言えていない。甘えたあえぎ声。長女気質のしっかり者なはずなのに。ついさっきまで白々しく清廉潔白を装っていたのに。その性癖とギャップを突かれて興奮してしまう。やっぱり痴女はいる。こういう子ほど逆にエロいのなんでだろう?肌と、皮膜と、粘膜と。最後はもう溶けて消えちゃうんじゃないかってくらいふたりは絡み合い、重ね合う。得体の知れないセックスの相性の良さに委ねて、その夜はふかくふかく闇堕ちしてしまった。

誰もが終わってほしくないと夜に馳せるだろう。それでも必ず朝は来る。閉園間際のディズニーリゾートのように、後にはしっかりと魔法が解かれていた。遮光カーテンの隙間から、朝の光が差し込んで部屋が薄明るくなる。一日の現実感を帯びていく。ふと目を覚ました彼女の表情には、もう昨夜のような雰囲気はなく、さながら別人の様相だった。コンタクトではなく黒ぶち眼鏡をかけ、いつものちょっと冴えないサブカル女子にしっかり戻っていった。切り替えが早いところもお姉さん気質だ。冷静沈着になった彼女が、使い古された台詞を言う。

「帰らなくちゃ」

慌ただしい朝、彼女達がなぜそんなに急いで帰る必要があるのだろう。男にとっては永遠の謎だ。心理的で複雑な事情があるのだろう。これもパターン化している事象のひとつだ。そそくさと身支度をする彼女に、僕はタクシーを呼んであげた。そして彼女のバッグにタクシー代を忍ばせ、さながら夢から覚めたままの無表情の彼女にキスをして見送った。いつも最後はルーティンのようになってしまう。

確かに彼女の言うとおり、この部屋はメンヘラホイホイだった。彼女はまんまとホイホイされに来た。彼女が京都に帰ってから形式的な連絡は取ったけど、もう一度僕に会いに来ることはなかった。一夜限りで二度会うことはない。それが最も美しく、はかない終わり方。たくさんの夜を経てきた僕だからわかる。二度目からは正真正銘の“闇堕ち”になっちゃうから、次会う時はよく考えて会わなくちゃダメだよ。

きっと普段は真面目に図書館職員として頑張っている子だ。読書が好きな彼女は、僕よりも多くの知見や物語を知っているだろう。それでもあの日のことはきっと、図書館に数多ある書物のどれ一つにも書かれていない。それほどにアブノーマルな体験だったと思うよ。あんなに言葉にできない夜を過ごしたのだから。

「epiさんの周りだけ “渋谷”って感じがします。」

一緒に歩いている時に、彼女が何気なく言った言葉だ。その一言がどれだけ嬉しかったか。もう彼女の輪郭も思い出せないけど、その言葉だけは忘れられない。遠くはなれた福岡へおめおめと戻ってきて、震えながらずっと渋谷に恋い焦がれていた。あの頃の自分をリマインド。

あの日はるばる京都から勇気を出して僕のところまで会いに来てくれた、ひとりの女の子へ。敬意を表して。

2014→2024/05/22 罠 1

「epiさんはメンヘラホイホイです。」

悪びれもせず、彼女は僕にそう言った。夜更けのBARの一幕で。ひどく酔っていたのかもしれない。僕がメンヘラホイホイなら、君は正真正銘のメンヘラだね。浮かんだ言葉をアルコールとともに飲み干して、ふうんと笑いながら話を聞いていた。

「でも、君はメンヘラじゃないんでしょ?」と僕は言ってみた。
「私も一時期やばかったですから。笑」彼女は正直に答えた。

でも、今もやばいよ。僕に会いに来た時点で、恐らくね。そして今、正にこのBARはメンヘラホイホイと化している。多分そのことに本人も気付いてた。僕は俯瞰していた。そしてお互いに素知らぬフリをしていた。彼女はちゃんとわかっててホイホイ飛び込んできた。真面目なのにどこか不真面目だ。僕はそういう、少しおかしなところがある女の子が好きだ。真面目に暮らしている人だって、本当は皆どこかちょっとずつおかしい。

彼女の話をしよう。彼女は僕と同郷の福岡出身で、京都に住んでいた。年齢はいくつか下だった。長女だったと記憶している。大学進学と同時に京都へ出たそうだ。京都の某大学を出た、いわゆる高学歴サブカル女子だ。彼女は本を偏愛していた。偏愛するあまり、図書館職員をしていた(僕のファンには活字中毒者が多い)。見た目は少し童顔で、黒髪のボブ、そして黒ぶち眼鏡がよく似合う。それはチャームポイントというより、もはや身体の一部のようだった。眼鏡を外したときの彼女は、ある種スイッチの切り替わりを意味していた。眼鏡を外すと色気が出る。ギャップという点では、眼鏡は付けるのも外すのもセックスアピールになりうるのだろう。

本が好きな彼女は、どこからか僕のブログを見つけ、数年もの間コメントもせずに黙々と読んでいたそうだ。書くよりも読むほうが専門らしい。僕とは真逆だ。
「女はこんな風に書けないですから。」
いつか彼女がそんなことを言っていた。確かにそうかもしれない。書く係と、読む係。互いに役割の違うもの同士がいて、はじめて相関関係が成り立つのかもしれない。

いつしからか、彼女は僕に会いたいと思ってくれたそうだ。こういう人は男女問わず、実はすごく多い。当時、僕は彼女の誘いをさんざん断った。ある種のハニートラップのような予感がしたからだ。それでもどうしても、という彼女のありがたい猛アピールに押し切られる形で、僕の住む福岡の街で会うことになった。

当時、僕の最寄りの薬院駅で待ち合わせをした。はじめて会った彼女は、白いレースのようなワンピースに黒のタイツ、足元はヒール。身体の一部である黒ぶち眼鏡は、ない。コンタクトに変えていた。いわゆる、“オンナの格好”。普段の彼女の生活様式からは、絶対に着ない服だろうとすぐに察した。僕はデートで会ったときの服装で、今日その子がどういう気分やテンションで僕に会いに来たか、ほとんどすべての事が手に取るようにわかる。髪の先、指の先、足の先。香水、メイク、アクセサリー。服のカラーリング、スカート、タイツ、ヒールを履いているか。女の子は、見た目にほとんど全ての情報が詰まってる。そして間違いなく、彼女は勝負服だ。そのことは出会って2秒で察した。その日これから起こるすべてのシナリオが、まるで緊張感のあるジャズのようにその時その場所にふさわしい形で構築されていく。

軽くはじめましての挨拶をして、福岡の都心を歩きながら話した。いくつかの僕のオススメのセレクトショップを巡り、その後は行きつけのBARに誘った。彼女は長女特有のしっかり気質で、とにかく自分のことをよく喋った。芸術のこと、家庭のこと、音楽のこと、受験に失敗して一浪したこと、飼っていた犬のこと。本人かなりお酒も飲んでいたが、見た目はほとんど変わらないように見えた。これは長女特有の酔い方だ。寄りかかって甘えたり、だらしない自分を見せる事ができないタイプの女だ。僕はそういった、その人の本質を見つけるのが好きだ。

二件目のBARを出たときは、もう25〜26時くらいだった。終電なんてとっくにない。そこから歩いて3分くらいのところに僕の家がある。無論すべて計算し尽くされている。彼女とて確信犯だ。彼女ははるばる京都から、今夜僕と一緒に過ごすことをあらかじめ想定してやってきた。きっと下着のデザインまで余念がないだろう。だから僕もそれに応じ、ストーリーを仕立て上げた。悪くない。二件目のBARを出たタイミングで、これからどうするか彼女に提案してみた。彼女の大義名分を作る前のアンサーチェック。はじめから、彼女に帰る気など毛頭ない事はわかっていたのだけれど。

つづく

2015/02/14→2024/05/17

これまでの人生で経てきたエロティックな体験は数知れずだが、その中でもとりわけ、非日常的なエピソードをここに少しだけ紹介したいと思う。

結論から言うと、それは夜行バスの中で起きた。あの日、僕は夜行バスに乗って東京から大阪まで向かうところだった。その夜行バスはとても狭く、そして男女関係なく席を割り振られるものだった。実際に乗るまでその事は知らなかった。僕は何の気なくただバスに乗り込んだのだが、隣の席に若い大学生くらいの女の子が座ってきた。センター分けで前髪を作らないワンレングスの子。軽く会釈程度を交わすが、これは大丈夫なのか?セーフなのか?と少々不安になった。

夜行バスに乗ったことがある人なら分かると思うけど、バスが走り出すと電気は消灯され、窓のカーテンは閉められ、車内は静まり返って、真っ暗闇の密室空間と化す。自分が今地理的にどの辺りにいて、どこへ向かっているのか、そもそも今何時なのか―――。とにかく何もかもが曖昧模糊として分からなくなる。ただバスのエンジン音だけが聞こえるような、さながらワンダーランドの錯覚に陥る。そんな場面で、隣の席に知らないワンレン女子大生(風)がほとんど密着して座っているのだ。おちおち寝られるはずもない。腰の辺りが軽く触れている。彼女は嫌がる素振りも全くなく、社交辞令のような敬語口調から少しずつタメ口調になり、周りの迷惑にならないよう小声で話をしていた。そうして身体的にも精神的にも、その距離が縮まっていった。

消灯の時間になった。眠れないせいか、彼女はイヤフォンで音楽を聞いていた。耳のイヤフォンから大きく音漏れしている。僕が肩をトントンと合図をすると、彼女は耳のイヤフォンを外す。ヒソヒソ話をするような体勢で、僕は彼女の耳に手を当てて、耳元で話しかける。「音、漏れているよ(小声)」すると、はっとした顔で「す、すみません…!(小声)」と慌てて返事をする。真っ暗闇の隣同士で、周りに迷惑がかからないよう小声で耳元で話し合う。手が顔に触れ、唇が耳に触れる。あり得ない、知らない男女が真っ暗闇でこんなことになるなんて。彼女の鼓動が鳴っているのが、触れている体から伝わってくるようだった。おまけに季節は冬だったので、僕は上着を膝にかけていて、それが彼女の膝も入るようにかけてあげていた。いわばカップルシートでブランケットを共有しているようなものだ。なんなら一緒のベッドで寝ているような感覚だ。なんだこれ。この状況は。流石にちょっとエロすぎないかこれ。このまま二人の状況は更にエスカレートしていくわけだが・・おっと!これ以上はトップ・シークレット。あんまりあけすけに喋ると18禁的なアレなので控えます。

ひとつだけ言えることは「夜行バスはエロい」(by aoillamy)。恐るべし。ひとしきり楽しんだ後、バスは朝5時に大阪梅田に到着した。さて、ここで気になる着地点がひとつ浮上する。僕達がその夜行バスを降りた後、どうなったか?―――無論、それをここで話すつもりはない。物語の結末は、あなたのご想像にお任せしたい。

2024/05/13 泥 3

月日は流れ、遠いところまで来れば来るほどに、なぜだろう、不思議と言葉はリアルさを増してくる。きっと、人はそんなに忘れないんだ。思い出せなくなるだけで。

リマインド。僕の記憶が確かならば、彼女はいわゆるリケジョで、関西の大学の薬理学に在籍していた。普段は白衣を着て、薬の研究をしているらしい。フラスコと縁なしメガネが似合いそうな、真面目な女の子だ。きっと白衣の下に着ているのはモノトーンのタートルネックで、その上から細いネックレスをつけたりするのだろう。タートルネックの上からネックレスを付けるのは、それを不意に脱ぐタイミングが存在することをあらかじめ想定していない。しかしそんな彼女が、僕と会うときは少し違った。艶っぽい黒髪のボブに、身体のラインがわかるグレーのニットワンピ、黒のタイツにパンプスだった。眼鏡は外してコンタクトにしている。動機がわかりやすい。〝今夜、あなたと過ごすことはあらかじめ決めている〟。表層のあざとさにそう書いてあるようだった。そういうところ、嫌いじゃない。

繰り返しになるが、僕達は夜の22時15分に渋谷駅で待ち合わせた。はじめましてが終電間際だ。つまり、彼女は来る前から確信犯だった。遠方からにも関わらず、その日のホテルすら取らずにやって来た。その上、彼女は会う直前にひとりで “景気づけ” の焼酎を飲んでいたという。お酒が入らないと、てんで駄目なところ。やっぱり嫌いじゃない。

モヤイ像の前で落ち合った後は、一緒に雨の渋谷を歩いて、宇田川町にある夜のカフェで酒を飲み直した。カフェには煙草の煙が漂っている。何を話したかは、まるで覚えていないーーー。あの日、一線を越えぬまま店を何件かハシゴした後、僕達は道玄坂のホテルに駆け落ちた。実験済みの薬の化学反応のように見慣れたものだった。ホテルでのひと時は、どちらかというと感傷的なものだったように思う。詳しいことは覚えていないが、初めて会った日にセックスをした。詳しくは覚えていない。ラブホテルの看板だけは鮮明に覚えている。記憶というものは、どうでもいい情景だけを焼きつけて、肝心なときに何の役にも立たないのだ。

ただ、微かに覚えている。明くる日の朝、僕達は宮益坂で別れた。しかし彼女は程なくして連絡してきた。その日に「もう一度会いたい」と言い出した。これは僕にとっては想定外のことだった。たった今、一夜を過ごしたのに?おそらく2泊3日の日程で東京へ来ていたのだろう。拘泥、それは背中にしがみ付きたいけれど、控えめな文面だった。そういう正直なところも、やっぱり嫌いじゃない。

二度目の時は、彼女は驚くほど素直だった。分かりきった騙し絵のように僕達は再会し、すぐさまホテルに向かった。そして、二日目の夜はここに書くのを憚られるほどに———僕達は何度も何度も繰り返した。そこは沼だった。彼女がソファーの下に跪き、僕を上目で眺めているシーン。跨って揺れる彼女越しに、僕が天井を眺めているシーン。乱れているのに、恐ろしく俯瞰している。本能などという言葉ではとても表せない。まるでお酒が入っていない方が彼女は赤く酔っているかのように、その時に溺れていた。そして気が遠くなるような二日目の夜が終わった。今度こそ演じきり、燃えつくし、そして幕を閉じた。そんな気がした。それはきっともう、この先僕達が会うことはないだろう、と肌でわかっていたからかもしれない。

あえて自白するならば、二度会うことは美しくない。そう、確かに僕達は決して美しくなどなかった。彼女は人妻だった。それでも彼女は僕に拘泥した。とても罪深い生き物だ。彼女は僕を利用した。そして僕も彼女を利用した。そして最後はあっさりとどこかで糸がプツリと切れてしまった。ゲームはおあいこで、しかし彼女はノーダメージ。結局のところ、男が女を傷つけることなんてできないのだから。彼女のように僕もずるくいられたらどんなに楽だろう?ただ、彼女の側にもまた、ある種の混沌があったのかもしれない。それは僕にはわからない。お互いにわからないことばかり、だからこそ知りたくて交わるのだろう。その代償に、消えない痕がしっかりと残る。どれだけの夜を経ても、背中にはしっかり十字架が刻まれる。そしてジワジワと僕は思い知る。これは “心が傷ついた状態” なのだ、と。

ほら。きっと、人はそんなに忘れないんだ。思い出せなくなるだけで。

2016/11/25→2024/05/10 泥 2

誤解のないように言っておくと、今回のことで後悔すべきところは何ひとつない。

本編は僕の思っていた着地点へと帰結した。すべて僕の手であらかじめ書かれたシナリオだった。ひょっとすると彼女にとっても同様だったのかもしれない。だとすると、これはある種のハッピーエンド(望まれた結末)なのかもしれない。馬鹿な!こんなに狂った喜劇も他にない。出会ったときからこうなるであろうことが予測できたのに、何故だろう?こんなに心がぼんやりしてしまうのは。割れるような痛みもないけど、つける薬も見当たらない。ただ風化して痛みのない傷口になる。でもちゃんと傷痕は残る。大体そんなところだ。

はじめて会った夜から、明くる日の朝がやってきた。僕が不眠症なのはさておき、彼女が眠ったところを一度も見なかった。おそらく眠れなかったんだろう。それでも悪びれることもなく朝はやってくる。朝は罪だ。一筋の閃光のように疾走(はし)った夜も、まるでそれが間違いだったかのように、洗いざらい奪い去ってしまう。でも、いつまでも逃避しているわけにもいかない。僕はホテルの窓を開けた。

タイムリミットが迫っていた。その日やるべき仕事と、留守番をしている犬が、僕を待っていた。二人で円山町のホテルを出て、道玄坂をまっすぐ下る。朝帰りの清らかな光が眩しくて、二人に罰を与えているようだ。渋谷のスクランブルを通り過ぎて、宮益坂を上った定食屋で朝食を食べた。そして僕はそこではじめて彼女の顔をまっすぐ見た。朝食に誘うべきではなかったのかもしれない、とよぎった。素の彼女を見るとハードボイルドで居られなくなってしまう。ただ、はじめて会った時から、一番本当の顔に近い気がした。寝癖が左右同じ方向についていた。

別れ際、宮益坂の交差点で僕達はどこかの国の儀式のような握手をした。朝の光が彼女の瞳を照らし、その時はじめて僕は本当の瞳の色を知った。薄い茶色のような透き通った瞳。本当はそういう色をしていたんだな、と思った。でもそのことは黙っておいた。言ったところで、何かをつなぎ止める糸口になるわけでもない。

帰りながら、ホテルでの一幕を思い出していた。時間さえも消滅しそうな風景だった。夜と朝の交錯地点で、彼女は言った。「また会えるかな」。そのワンシーンで誰もが使い古して、記号になってしまったような言葉だった。答えはよく知っていた。
「また会えるよ」
無責任な言葉。自分でもそれが正しい答えかどうかわからない。でも、そこで何を言っても適切じゃない感じがする。でもこの時は、きっとこれが結びではないだろう、と何となく予感していた。ふたりの出会いが何かの間違いだったとしても、たとえ罪深いものだったとしても、僕達はこの甘く心地よいひと時に、もう少し騙されていたいと思っていたから。

続く