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空耳妄談―誰かが囁いた方がいい話もある

曲がりなりにも、ブログを週一で書くようになってから、人様の書くエッセイを前にも増して注意して読むようになった。
好きなエッセイストをあげるなら内田樹、福岡伸一、鈴木正文あたりであろうか。
彼等は、週刊、月刊誌にレギュラーとしてコラムを持つ売れっ子のエッセイストでもあるが、彼等に共通することは、文章の上手さというより、話題とすることへの論理の運びの巧みさと、全体の文脈を構成する力が優れているところにあるように見受けられる。

日頃、息子から、「中学生のような絵日記を書いていてどうするんだ?」と揶揄されている私としては、彼等から何とかエッセイを書くコツのようなものを盗みたいと常々考えているのである。

しかしながら、僕は福岡ハカセのような立派な科学者ではないし、鈴木正文氏(現GQ編集長、2012.8.1グルマンライフに登場)のように、世渡り上手の遊び人でもないから、能力、経歴からいっても望むべくもない事と承知はしているのでありますが。

 エッセイの極意の一つは、読者が無意識、前意識で考えていたり、感じていたりすることをはっきりと文章という形で示すことによって、読者に意識化させ、かつ読者以上の洞察を示すことで、ある種の納得感、感動をもたらすことにあるのかもしれない。

 世の中には、どこかおかしいなあ、と思うことは少なくありません。それが、不自然でも、まかり通るには、それなりの理由があり、ある種の人たちにとってはその方が都合がいいことが多いからのようです。

 そんな、誰かが、ささやいた方がいいと思われるような話を妄想チックに書いていきます。

*安部首相のごまかし

内田樹氏は、ご存知のように、護憲派の思想家、哲学者で、武道家でもあり、武道の力学を介護術に導入した柔軟な思考の持ち主でもあります。

 アエラ最近号の「eyes」や自身のブログ「内田樹の研究室」で、集団的自衛権行使容認をめぐる安部首相のまやかしについて、正面から鋭く、批判しています。
私も安部首相の危うさ、胡散臭さには直観的、感覚的には掴めるものの、アベノミクスの表面的な成功(優秀なブレーンと単純な頭脳のベストマッチのお蔭?)の前では、つい舌鋒もトーンダウンしがちなところは、マスコミ、世論と同様ですが、彼は安部首相の説明の欺瞞性と論理的破たんを、見事に論理的に追いつめています。
そして何よりも、憲法解釈の変更と言う一内閣の決議で、事実上の憲法改正をしてしまうという、一内閣が国会という立法府の権限(国民の権利)を奪取し、独裁状態に至りつつあることに警鐘をならしています。

 まさしく、自分が言いたいが、うまく言えないことを、見事に代弁してくれて溜飲が下がる思いです。

*公明党の茶番劇

 公明党は平和主義を公約にしており、集団的自衛権の行使の閣議決定をめぐっても、与党内での自民党への抑止力が期待され、実際そのような役割を振る舞ってきたのですが、土壇場(単に自民党が決めた期限にすぎないのですが、)になって、自民党に迎合して法案を閣議決定しました。(ま、予想通りですが。)

 その理由は、業を煮やした安部首相が、公明党に「次回の選挙は公明党と選挙協力しなくとも構わない。(別に無理して与党に残ってくれなくてもいいんだよ。)」と言ってジャブを入れたら、公明党はもろくも腰砕けになったわけです。 これは新聞社系某週刊紙の記事ですが、おそらく事実だろうと思います。

 公明党は与党でなければ、存在意味が無いからです。それは公明党が与党である限り創価学会は安泰であり、余りある役得をうけるからです。

 多分、そのような関係(公明党は自民党には逆らえない、せいぜいガス抜き役でしかない。)はマスコミには公然の事実でありながら、表だって公明党を批判できないのは、創価学会がマスコミに対して、数を頼みに絶大な力を持っているからです。創価学会を敵に回したくないから、これまでも創価学会に都合の悪い記事は常に、握り潰して来た歴史があります。

 こんなマスコミに民主主義を守る一翼を期待するのは、元々無理な相談なのです。

 大手新聞やテレビ局は、世間の景気とは無関係に超高給をはみ、
黒塗りのハイヤーを乗り回し、
多くの仕事は下請けに回し、働き手の大半はパートであり、
海外の紛争地には決して正社員は行かず、危険な仕事はフリージャーナリストを臨時雇いし、まるで見てきたかのように記事を書き、
社内ではセクハラが日常でも,他人の倫理感だけは呵責無く責めるというような、
根本から恥知らずな体質に、まっとうなジャーナリズムを期待しようもないと思うのです。

*ワールドカップの茶番について。

 ワールドカップも終わってみれば、あの騒ぎは一体なんだったんだろう、と思うようなことも多い。

 大会も後半になって、各国の凄まじいプレーを見るにつけ、日本は本当に決勝トーナメントに進めるだけの力があったのか疑わしくなる。

 「自分達のサッカーが出来れば・・・」と一様に言っていたが、「例え出来ていても無理でしょ。」と言いたくなるような、他国の感動的な試合が決勝トーナメントでは多かった。

 ブラジルは、あのネイマールの負傷(傷害でしょう?)が悲劇となったが、日本の負けは悲劇でも何でもなく、ただ力不足であったに過ぎない。(と思う。)

 それを皆でごまかしていたのだ。

 「たまたま力が出せないの(運)も実力のうち」と、昔から日本では言うではないか。
日本のサッカー界はクールじゃないね。

 開催前から、日本の力不足、困難さをはっきり言ったサッカー評論家、マスコミ関係者は皆無だった。
世界標準で語れない、日本の解説者、評論家は(芸能人気取りだけの)無用の長物だ。
「絶対勝ちます。勝つしかない。」と感情に走って叫ぶのでは、渋谷のスクランブルのサポーターと何ら変わるところが無い。

 一方、日本のサポーターは、サッカー競技場の日本の応援席のゴミを片づけたりして、マナーの評価は高かったという。

 ウン??
では富士山のごみの山は全部、外国人登山者が残したとでも言うのだろうか。

 もう一つ日本人らしい厭らしさが透けて見える事がある。

 ザッケローニ監督の責任を問う声が上がらないことだ。
敗戦直後に、そそくさと帰国した監督を成田まで見送りに行った日本のサポーターも少なくなかったという。

 なぜ負けたのか、何処が間違っていたのか、を日本サッカー連盟と協議して次への提言として残し、
日本国民には陳謝して帰る位のことは、
高給をもらいながら、責任を果たせなかったことへのせめてもの礼儀、償いではないのか。(これは日本サッカー連盟の上層部にも当てはまることだが。)

 彼、彼等を非難する声が全く聞かれないのも日本特有の不思議なことだ。

 男子選手は、女子WCで優勝したナデシコジャパン(女子サッカー日本代表)を見習うと良い。

 「疲れたら、私の背中を見て」と言い走り続け、選手を鼓舞した当時のキャップテン沢選手の言葉は忘れられない。

 ナカタにもホンダにもそれだけの力も人望もなかったのだ。

 サッカーは個人プレーでもあり、ティームプレーでもあることは、ブラジルが負け、ドイツが優勝して教えてくれた。

 (これからも空耳妄談はシリーズ化していきます。)

 

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