レクイエム(ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト)

レクイエム(表)

レクイエム(裏)

収録曲 レクイエム ニ短調 LD1枚(収録時間:93分)
ポリドール ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ) 1991年制作。

アーリーン・オジェー(ソプラノ)
チェチーリア・バルトリ(メゾ・ソプラノ)
ヴィンソン・コール(テノール)
ルネ・パーペ(バス)

「モーツァルトのためのレクイエム」と命名されたこの作品は、モーツァルト没後200年記念行事の最後を飾るという位置づけで催された、ウィーン市内シュテファン大聖堂での追悼ミサのライブ映像です。当時、この映像は世界中に配信されていたということを、このLDのナレーションにより知りました。ジャケットの解説によると、モーツァルトの葬儀が執り行われたのが、200年前のここシュテファン教会(当時は大聖堂ではなかった)とのことです。

このLDでは、モーツアルトの死と“レクイエム”にまつわる真実を8分ほど費やして「レクイエム物語」として説明しています。そこには私たちが知っている(と思い込んでいる)こととは少し違う、最近(と言っても数十年前ですが)になって判明した事実にも触れられています。感動的なシュテファン大聖堂司祭の祝福の言葉と共に、そのままの内容を以下に示します。

「レクイエム物語(ナレーション)」

200年前、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが死んだ時、彼は未完成の作品を残した。それは「死者のためのミサ」であった。この名作にまつわる話は、1791年の7月に始まる。

彼が「魔笛」の仕事に本格的に取り組んでいたときである。不思議な“灰色の使者”が現れて、彼に一通の手紙を渡したが、それは身分を隠した謎の人物からの作曲依頼状であった。妻のコンスタンツェに励まされて、彼はこの申し出を引き受けた。前金の50ドゥカーテンが非常にありがたかったので、4週間のうちに完成すると約束したのである。

使者は一つの条件を示した。それはレクイエムの依頼者の名前も、またどんな人物かも決して聞いてはならぬというものであった。事実は、この不思議な使者はヴァルゼック伯爵の召使いであり、その伯爵というのはウィーンの南に住む豊かな貴族であった。

ヴァルゼック伯爵は教養人で芸術を愛するアマチュア音楽家であった。ただ、彼には変わった趣味があり、作曲家に曲を依頼してそれを自らコピーして自分の作品だと称して楽しむのである。その年の初めに、彼の妻が21歳の若さで亡くなったので、有名な作曲家モーツァルトにレクイエムを依頼したのであった。

モーツァルトはすぐ仕事を始めたが、数日後もっと急ぐ仕事が入り中断せざるを得なくなった。プラハでおこなわれるボヘミア王レオポルドⅡ世の戴冠式のためにオペラを依頼されたのである。

「レクイエム」を後回しにして、彼は「皇帝ティトウスの慈悲」を作曲した。彼自身が指揮してプラハで初演するためである。ウィーンを発つ少し前に“灰色の使者”が再び現れて、彼に「レクイエム」の作曲を急がせた。モーツァルトはウィーンに帰ったらすぐ完成すると約束した。しかし、9月の「魔笛」の初演とその他のダンス曲の依頼のために「レクイエム」の作曲は更に遅れた。

モーツァルトは苦悩し、ストレスによる抑圧状態となって、彼自身のレクイエムを書いていると思い込んでしまった。ある日の午後、プラーターに出かけたが、モーツアルトは恐怖を口にしたので、コンスタンツェは落ち着かせようと、数日間彼を楽譜から遠ざけた。1791年11月20日。モーツァルトはリューマチ性の熱で病床に伏したままとなった。内臓が腫れたことによる激痛が彼を苦しめた。病気にもかかわらず絶望的になって「レクイエム」を作曲し続けた。そして弟子たちに、この曲の構造を説明した。彼はオーケストレーションについての指示もメモに残した。

ある日、友人たちが来てこの曲を歌い、彼もアルトのパートを歌ったが、「ラクリモーザ」まで来ると、彼は泣き出したと伝えられている。それはモーツァルトの自筆で書かれた最後のページであった。11月28日。モーツァルトの病状は一層悪化し、更にもう一人の医師が呼ばれ血を抜くよう指示したが、これは弱いモーツァルトの体を、一層消耗させただけであった。12月5日の夜。真夜中過ぎに、死が35歳の彼を連れ去った。

当時の習慣に従って、モーツァルトの未亡人は葬儀に参列しなかった。モーツァルトは死んで多くの借金を残した。コンスタンツェは「レクイエム」の依頼を断りたくなかったので、モーツァルトが残した全楽章のスケッチによって、彼女の亡き夫の精神に従って作品を完成させることを決意した。仲間の作曲家に夫が作曲したかのように完成させることを頼んだが、これは困難な仕事だったので、2人の作曲家が断念し、結局、当時のモーツァルト家と最も親しい友人であり弟子であったジュースマイアーが完成版を作り上げた。しかも彼は、筆跡までモーツァルトと似ていたのである。こうして、1792年の春にはコンスタンツェは“灰色の使者”に全曲の楽譜を渡すことができた。

ここが、12月6日に彼の葬儀が執り行われた、ウィーンのシュテファン教会である。一般に信じられているのとは違って、彼は貧民の墓に葬られたのではない。当時の規則に従って、彼の遺体はマルクス墓地へ馬車で運ばれた。そこは旧市街を囲む城壁から数マイル外にある。葬列も葬儀もなく、ごく簡単に共同墓地に埋葬されたのである。数年後には墓の正確な場所は忘れられた。墓堀人も死んでしまい、もちろんその後継は何も知らなかった。(終)

「司祭の祝福の言葉」

父と子の精霊の名において、平和がみなさんと共にありますように。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトを追悼して、彼の素晴らしい作品「レクイエム」によって、彼自身のミサを行うために我々は集まりました。我々は神の子を我々に遣わされたその愛に感謝し、キリストの受難と復活を祝い賛美します。神はキリストを称えます。このミサが神が創られた者、神の子であるウォルフガング・アマデウス・モーツァルトに、豊かで偉大な才能を与えられたモーツァルトに、神の心と愛が永遠に与えられますように祈ります。この死者のための典礼に参加された尊敬すべき方々の名において、本日の出演者の方々に、まず心からお礼を申し上げます。ゲオルグ・ショルティの指揮による、我々のウィーン・フィルハーモニー。そしてウィーン国立歌劇場合唱団と選ばれた独唱者の方々が演奏します。モーツァルトが彼の死の数週間前にこのシュテファン教会の本当に近くで、考え、我々に遺した曲を、神のお慈悲と愛を、あなた方と我々のために祈ります。(終)

映画「アマデウス」では、モーツァルトを貶(おとし)めようとする宮廷作曲家アントニオ・サリエリの手先として扱われている“灰色の使者”ですが、意図してモーツァルトを追い詰めようとした、誰かの手先ではなかったということがわかりました。

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