■マジックの種明かしの前と後

てつさらです。

まず、この動画をご覧になってください。(一時期、ネット上などで話題になったので、ご覧になった方も多いとは思いますが…)

最初の50秒間を見たときは、「え、あのボール、どこから出てきたの!?」という驚きしかありません。

でも、その後、カメラの角度が変わり、種明かしがなされます。「なーんだ!そういうことだったのか」

そして、その種明かしを知った上で、もう一度冒頭の50秒を見直してみると…、私たちは、最初の種を知らない状態で見たのとはまったく違った目で、その光景を見ることになります。

種明かしをされる前と後では、同じ光景が、まったく違って見えるのです。

 

■世界が違って見える

このように、何かの情報が与えられる前と後ととで、見える世界が一変することは、日常の生活においてもあるのではないでしょうか。

秋月龍珉氏の『道元入門』という本を読んでいたら、次のように書かれていました。

 道元に「聞くままに、また心なき身にしあれば、己れなりけり軒の玉水」という歌があります。自己を忘れて―無心に聞くとき、軒の玉水がそのまま自己であったというのです。芭蕉はこれを「よく見れば、なずな花さく垣根かな」と詠じました。“よく見れば”がきいています。これを「見色明心(けんじきみょうしん)」(形あるもの―目の対象―を見て、心をあきらめる)といい、また「聞声悟道(もんしょうごどう)」(音声―耳の対象―を聞いて、道を悟る)というのです。

 「花は紅、柳は緑」といいます。きのうもなずなの花を見、柳の木を見ていたのですが、きょうは全然違って見えたというのです。「尋常一様窓前の月、わずかに梅花あってまた同じからず」という句があります。いつも見ている窓辺の月に変わりはないけれど、きょうは梅一輪の匂いのために、同じ月が、まったく違って見えるのです。自己を忘れるという禅定(三昧というに同じ)に裏づけられる時、ものが違ってみえるのです。 (秋月龍珉『道元入門』より引用)

ここで描かれていることは、上述の手品の種明かしの話と似ています。

梅の花一輪が目に入るだけで、他は何も変わらないにもかかわらず、月を含めたこの世界の見え様が一変する(それまでの冬の世界から、春の兆しを感じる世界へと一変する…)こともありうるのです。

Ume / Prunus mume / 梅(うめ)
Ume / Prunus mume / 梅(うめ) / TANAKA Juuyoh (田中十洋)

 

■たまたま発見する喜び

ただ、この話が、手品の種明かしと異なるのは、梅の花は誰かがそこに人為的に飾ったものではなく、たまたまそこに咲いていた、ということです。

偶然に起こるほんの些細な出来事が、この世界の在り様を一変させる…。これほどおもしろいことはありません。

私たちは、この世界の在り様を変えるには、大変な努力が必要だと、つい考えてしまいます。

しかし、実は、この世界を一変させるには、梅の花が一輪咲くだけで十分なのです。

そして、私たちが生きていく最大の意義というのは、この一輪の梅の花のような、そこに存在するだけで世界を一変させるようなものごとを、いかに日常の生活の中で発見していくか、ということに尽きるように思います。

以上、てつさらが、さらっと書きました。