三百二十四話 日々そこにある贅沢

商売柄、金銭的に恵まれておられる方々に接する機会も多い。
中には、自分とは棲む世界が明らかに違うという浮世離れした方にお目にかかることもある。
お金持ちにはお金持ちの、貧乏人には貧乏人の、それぞれ誰しも悩みを抱えているだろうから。
一概に、財の高だけで、ひとの幸不幸は量れるものではない。
まぁ、たくさん有るに越したことはないけれど。
五〇歳も半ばになると、ひとにとって贅沢な暮しとはどんなものだろうか?と考える時があって。
暮しと言っても、衣・食・住と色々にあるので、なかでも食についての話をさせて戴く。
これまで、いろんな国で、いろんな飯を喰ってきた。
そこで、一等旨かったのは何か?と訊かれると、迷わずこの時の此処のこれを挙げる。
暮れの出張で越後に赴いたが、産地が豪雪に見舞われ、村内で年を越す羽目となった。
新潟県の栃尾、今では市町村合併により長岡市になっているらしいが、よくは知らない。
産元や機屋に誘ってもらったが、家族団欒の正月を邪魔するわけにもいかず、ひとり宿に居た。
もっとも、婆さんと嫁とで切盛りするその宿も正月は客を取らず家族で過ごすつもりだったらしい。
迷惑な客人だったろうけど、こればかりは諦めてもらう他ない。
元旦の朝、ひんなか(栃尾弁で囲炉裏)端に膳が設えてあって、婆さんが付合ってくれる。
「あんさま、いきで、どこもいがんねぇ、こんげでも、あがらっしゃい」
寒鰤が入った油揚げの雑煮、竈炊きされた天日米の白飯、凍み大根の煮物などが並ぶ。
なにがどう旨いというよりも、ありふれた食材が、ここまでの味になるということに驚かされた。
しかし、この米も、大根も、油揚げも、鰤も、僕のために用意されたものではない。
正月に帰って来る亭主のために、嫁が、地物の中でも最高のものを目利きし味付けしたものだ。
他人の口に入れるつもりなどなく、僕はたまたま亭主のお下がりを頂戴したに過ぎないのだと思う。
誰が調理して、誰が喰うのか分からない喰物ほど、始末に悪いものはない。
百貨店やスーパーの総菜、コンビニ弁当、ファミレス、ホテルの宴会料理など。
調理人からは客の顔は見えない、客からは調理人の顔は見えない、旨い不味い以前の話だろう。
果たして人間が作っているのかどうかも怪しい。
屋台の親爺が供する夜鳴き蕎麦の方が、よほどに有難い。
飯屋も服屋も似たところがあって、対象が広ければ広いほど、不味かったりつまらなかったりする。
だから、僕は、出来る限りこじんまりとした路地裏に在る飯屋を選ぶことにしている。
贅沢な食とは?
そう考えると、HOME MADE に行着くのではないかと思う。
昨日、横浜の友人から、家で焼いたというパンが届いた。
かたちも味もそれぞれのいろんな種類のパンが包まれてある。
今月は、義母の一周忌にあたる。
そんな想いもあって、贈ってくれたのかもしれない。
言葉にすると軽くなってしまうけれど、ひとの気遣いとは有難いものだと思いながら戴いた。
マジで、うめぇ〜。
高級パン屋の是見よがしな味とは違って、食べ飽きない品の良い風味があって、とにかく旨い。
それにしても、ここんちの御主人は、毎朝こんなパンを喰って出掛けているのか?
だとしたら、その暮しは間違いなく贅沢だ!
しかし、贅沢は、実際に贅沢をしている時には、それが贅沢だとは思わないものなのだろう。
栃尾の亭主も、横浜の御主人も。
そんなことはあたりまえで、日常の内に当然あるものだと思われているのかもしれない。
日々そこにある贅沢。
気付かぬうちに暮し終えたなら、これほど幸福なことはないんじゃないかなぁ。

友人へ。
義母も、娘が、良き友人に恵まれたことを心強く安堵していることと思います。
ほんとうに、ありがとう。

 

 



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