日本から世界へ道を

武力は武力の報復を生む。過剰な競争は世界を混乱に陥れる。強き者が弱き者をかばうところに人の道が生まれる。資本主義とは世界に平和をもたらすための人の智慧の道の筈だ。過剰な競争は地獄への道である。今年の日本は敗戦後70年であるが、戦後70年と言う視点で捉えられるようである。昭和20年8月15日が終戦の日ではなく、敗戦で終わった日である。戦後70年と言うと、何か原因も分らないが戦争に突入しており、結末の状況も意識に無く、その戦争の意義・責任も十分検証せずに、ただ歴史上の年代としての戦争が終了した事実の年から70年目に当たると言う意味にもとれる。しかし敗戦後70年なのである。昭和20年8月15日、その日から70年に当る年である。敗戦で味わった苦境と悲惨を知っている人の日本人の中に占める比率がどんどん減っている。敗戦という事実をどのような意味で捉えるかは大切な事と思う。日本人自身、日本政府としてのあの敗戦の原因を公的に検証していない。東京裁判さえも占領軍の不当性に因るという批判さえも囁かれる。積極的にその戦争が間違いであったと言う反省は『自虐』という見方で、過去を消し去ろうと言う意識に強く見受けられる。その象徴的な意味が『靖国神社』に示されている。当時の戦争に関わった責任ある人々及びその子孫が戦後も政治・行政機関の要職を占めている事実が、その戦争の意味を全く検証しないで現在に至っている要因であるように考える。敗戦の前後で、体制意識に断裂も無く継続して今日まで続いているのも事実である。一体日本人がアジア太平洋戦争に関わった原因は何であったのか。何故日本の国でない、中国、朝鮮・韓国に踏み込んで、誰の利益の為の戦争であったのか。更にアメリカに戦争を仕掛けたその目的とその結果に対する予測を誰がどのように考えて決め、戦争に突入する決定をしたのか。全て戦闘に入るまでの経過を考えた時、戦争の相手から要請された訳ではなかろう。戦争を始めた意味と何故敗戦の苦境に至ったかを日本人は考えたのだろうか。結果にはその原因がある筈だ。広島、長崎の原爆による非道な爆撃は人道的な意味で許されない事実である。原子核の科学技術の人間が越えられない科学技術的制御不能性(原子力発電の巨大システムとなる時、その現場に関わる人間全員が、どんな状況でも全ての制御系統を把握し、的確に初期対応ができるほど日常の緊張と能力は極めて不確実性を含んだものであろう。)と人間の精神の根本的罪悪性(原子爆弾の製造・保有は人間を殺すための非人道的科学兵器)がその陰に常に付きまとう事実さえも無視、隠蔽しようと非安全に流れる人間世界の実相がある。何故あんな悲惨な原爆の被害を受けなければならなかったのか。国民の生命・財産を守るという大義名分が戦争をする指導者の常套句である。あの戦争で、国民の生命と財産がどのように守られたか?どんな戦争による世界の幸せを生みだしたか。戦争が国民の生命と財産を守る等と言う事は全くのウソである。国民の生命等は指導者層の思惑のための道具としか見なされない。その戦争の意味を考え、誰がその責任を負わなければならないのか。先の戦争で、敗戦の色が濃くなったとき、『特攻隊』が日本軍の戦闘の悲しい作戦として実行された。自分の部下に半強制的な逃げられない死の自爆兵器と成れと命令をする。それは今のテロの自爆攻撃の命令と余り変わりがない野蛮な行為である。その過去を日本人は咎めずに、許すとしたら、未来に日本人の意識に隠れた危険な無意識性が潜んでいると思って恐ろしい。すぐに全体的集団意識化し易い国民性に思えるから。統一・集団意識、行動が好みに思えるから恐ろしいのである。過去を分析せずに未来を展望できないだろう。この日本人の傾向は、文科省の教育体勢の国家的統制意識に強く見受けられる。全国統一試験制度、中には卒業認定に共通試験認定制度をなどと言う言説さえ見える。一見良さそうに思えるかも知れないが、個性的な考え方を抑え込もうとする制度であることには違いない。それぞれに異なる考え方が広まるように、統一制度は廃止すべきである。それが未来への日本の進むべき道である。戦争に突入する前夜の日本を覆う空気は、今も色濃くきな臭く残っているように感じるのが的外れであるように願う。統一と個性は政治制度における命題でもあろうが、戦争という破壊行為に繋がる重要な要因でもある。人間と言う命は何故人間を殺す事に平気なのか。他にこんな命が地球上にいるだろうか。こんな悲しい事を書き記す自分の無能(競争する意欲が元々ないのか?)と愚かさが悲しい。

日本から世界へ と標題を決めて書きだした。ところが思うと少し違う方へ論が流れて行った。実は自然科学の話を世界に広めたいと思って掛ったのである。しかし、御正月の新聞を読めば、戦後70年との見出しが目に焼きつく。その事を抜きに自然科学に心を集中できないのも許される筈と、そんな言い訳をする。科学論に戻ろう。西洋哲学と東洋哲学の違いに関係づけられるかと科学理論の問題点を拾い出して、加算的科学論を削ぎ落し科学論との対比で眺めてみようと思った。東洋哲学は本質を追究する事により、理論と言う常識の中味からその矛盾をどんどん削ぎ落してゆく思考法のように思う。今私の頭の中には、もともと習得できなかった事でもあるが、自然科学理論の大方が無駄のように思えてくるのである。これは本当に自分でも困ってしまう事態である。それにしても、特に理解困難で、難しい数学理論に因る科学論の手法は全く不要でないかとさえ思うに至ってしまった。自分の能力の無さを棚にあげての解釈で誠に身勝手ではあるが。私が考える内容や観点は誠に単純で、複雑な基礎を学習しなくても良い程易しいもののように思える。ただ無いものを無いと言う論がこんなに難しい事であるとは、過ぎ去ったから思うのである。『電荷』が自然科学論の最も基本的概念として、世界の常識となって認知されて来たにも拘らず、それを否定するのが削ぎ落としの具体的事例として挙げたい訳である。『電子』と『電荷』の間の関係も誠に不可解な概念的結び合いになっているのだ。電子と電荷は異なる筈なのに、どのようにその差を認識したら良いかも判別できないのである。結論は『電荷』など実在しない物理量の概念を仮想して科学理論を構築して来たから、『電子』と『電荷』の取り上げる論理的差異を認識せずに、適当に使い続けて来たところに、矛盾構築の因果が生まれたと考える。電流は流れずの意味を又考えておこう。電流は『電荷』の時間的微分値で定義される。『電荷』だけで良いのに、何故質量を持つ『電子』の流れと言うのか。『電子』なら『電荷』の時間微分値と同時に『電子質量』の微分値も加えた合成値で電流を解釈しなければならないと思う。『電子』に質量が無いなら、用語『電子』は不要で全て『電荷』だけで良い筈だ。『電荷』そのものの概念が明確に認識できないにも拘らず、その存在を既定概念としているところに、矛盾の根源がある。存在しない『電荷』を取り上げて、その否定のために多くの側面からその概念の矛盾を暴きださなければならない程、頑迷に科学理論の根幹の概念『電荷』『電子』が科学常識に成ってきた意味は、その人間の意識との関係でとても大きな意味を持つ内容である。

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