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天と人間、天道と人道 ~孔子と墨子の哲学から考える~

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(YouTube解説講座)

天と人間、天道と人道 ~孔子と墨子の哲学から考える~

  
和田徹也

目次

1. 問題提起  2.独立した個人と血縁関係  3.自我の形成と生きることの確証  

4.信頼の理念と血縁  5.孔子における天と人道  6.墨子の尚賢説・兼愛説・尚同説  

7.孔子と墨子に見る分割の論理と創造の論理  8.天と人間  参考文献

1. 問題提起

人間は他者に言葉をかけ続けます。他者に言葉をかけたくてしょうがない存在なのです。言葉は、個々の人間の内心の自由が形成した意味を表明するものです。この言葉の意味を他者と共有しようとするのが私達生きている人間です。

この言葉すなわち言語といったものが確立されると、物質である個々具体の身体から離れた精神といった概念が生じます。他者との言葉の意味の共有において、精神は他者との共通の基盤として機能し、極めて強力な力を発揮することになります。なぜなら、現実の物体である身体から独立した精神という立場、言い換えれば、宙に浮く第三者の立場といったものから現実の事物を表現することが可能になるからです(「身体と精神、自我と他者」参照)。

では身体から離れたこの第三者の立場として精神はどこに存在するのでしょうか。

私は、それこそ天に存在すると考えるべきではないかと思うのです。天は、第三者的立場を表明する究極の概念ではないかと思うのです。お天道様が見ているとよく言われる通りのことなのです。

言うまでもなく、天という言葉は私達の日常生活でよく使われています。例えば、天才、天災、天命、天下、私達がよく使う言葉です。天から与えられたもの、天の定め、天の下の世界、このような意味合いでよく使われています。

実は、天という言葉は古くから使われ、中国古代の哲学で論じられていたものです。古代の中国では、天は万物を生み出すものであり、万物を支配するものと信じられていたとされています(板野「中国古代における人間観の展開」23頁)。

そこで今回は、人間の存在にとって天とは何か、人間の精神と天との関係について、中国古代の哲学思想を参考にして考えてみたいと思います。

2.独立した個人と血縁関係

私が提案している哲学理論である「純粋人間関係論」は、独立した個人を出発点として理論構築するものです。なぜなら人間は個々独立の物理的存在だからです。

しかしながら、この発想に対しては、血縁関係こそ他の全ての規定に先立つ最も原始的根源的な人間の規定であるとし、人間は個人として結合関係に入るに先立って自然運命的に親子の血縁関係の中にある、血縁関係という規定を抜きにして人間を規定することは全くの空虚である、こういう主張があります(高山岩男「哲学的人間学」27頁)。

もちろん、この血縁関係の存在は否定することができません。したがって、人間社会を維持する正当性として普遍的なものがあることは間違いないと思います。

しかしながら、人間が物理的存在である以上、独立した個人という発想も不可避だと思うのです。親子であっても、独立した個々の人間であることは否定できません。ここで重要なことは、子から見た親は、また、親から見た子は、他の人達とは大きく異なるということなのです。親と子は、特別な結びつきがなされているのです。

問題は、この特別な結びつきとはどういうものか、こういうことだと思います。この人と人との特別な結びつきは精神的なものです。私はこの精神的な結びつきを信頼の理念と表現することができると思うのです。親と子が信頼の理念によって結ばれていることは、誰もが認めるところだと思うのです。

ではそもそも信頼とは何を意味しているのでしょうか。次にそのことを考えてみましょう。

3.自我の形成と生きることの確証

独立した個人は生きています。生の発現としての主体的存在であるわけです。ところが、主体性を表現することは困難です。表現された途端に客体となってしまうからです。

そこで、私は、誰もが感じる「拡がり」を考察の原点として主体性を表現しようと考えました。自分が目を開けると、まずは拡がりであって、拡がりの対象が飛び込んできて拡がりが意識され、意志・意欲を持った主体性を有する自分も意識される、こういうことです。

この拡がりは常に起点が求められます。世界の中心であるということです。この唯一の起点こそ独立した個人を構成するもう一つの要素なのです。かけがえのない自分自身すなわち「自我」とは、人間が物理的存在であり、かつ、主体性すなわち拡がりの起点として世界の中心にあることから導かれる概念です。

しかしながら、自我という概念には、理性的な主体としての意味もあるのです。実は、この理性的主体は、拡がりの対象である他者との関係において生じてくると私は考えます。

人は他者に期待通りの行動を求め、自ら他者の期待する行動を行うのであり、この期待し期待される行動が役割というものです。理性的な自我とは、この様々な他者、一般化された他者からの役割期待に基づいた常識に則った判断を行う主体を意味するのです。

以上申し上げてきた、世界の中心にある理性的な自我、これを私は「拡がる自我」と呼んだわけです(「拡がる自我」参照)。

さて、生の発現である拡がる自我は、生きていることを実感し、生きていることの確証を求めようとします。この、生きることの確証を、私は「拡がりの確証」と表現しました(「拡がりの確証と組織文化の本質」参照)。

食事をはじめとする物質代謝は物への拡がりの確証を意味します。そしてより重要なのが他者への拡がりの確証です。それは他者と言葉の意味を共有することにより成し遂げられます。

他者への拡がりの確証の論理の設定こそ、自分の役割を定め、他者の役割を期待する関係そのものだと言えるのです。そして他者の役割期待に自分が応えること、他者が自分の期待する役割に応えること、このことこそ他者への拡がりの確証の実現であると考えることができるのです。

実は、互いに相手の役割期待に応える、ここに信頼といったものの成立根拠があると私は考えるのです。次にこのことをさらに詳しく見ていきましょう。

4.信頼の理念と血縁

他者への拡がりの確証は、常に実現できるわけではありません。その理由は、言葉の意味というものが、実は、極めて曖昧だというところにあります。他者への拡がりの確証は他者と言葉の意味を共有することにより実現します。この場合、言葉は、各人が勝手に意味を付与すると同時に、より多くの他者に注目されようとして、どうしてもその意味が広くなり、曖昧になってしまうのです(「言葉とは何だろう」参照)。したがって言葉の意味に対する誤解が常に生じてしまい、言葉の意味の共有といった他者への拡がりの確証が実現できない結果となることが多いのです。

このように、他者への拡がりの確証が不確実である以上、どうしても、人と人との間には誰もが納得する信頼の理念といったものが必要となります。その信頼の理念を基に、他者への拡がりを確証しようとするのです。

ではその信頼の理念とはどのようなものなのでしょうか。誰もが納得する理念とはどのようなものなのでしょうか。

その代表的な例が、先程申し上げた血縁だと考えられるわけです。血のつながりは否定できません。ここに、親と子の関係、兄弟の関係、さらには親族の関係といったものが成立するのです。子は親を敬い、兄弟は長幼の序列があるといった理念、すなわち、孝行、孝悌といった理念が形成されるのです。

親孝行をする、親族の年長者を敬う、祖先の墓参りを行う、その他様々な血縁を重んじる日常の倫理が私達には染み付いています。これらはある意味、人類にとって普遍的なものかもしれません。少なくとも、日本には、伝統的に古くから存在してきたことは否定できません。血縁を中心とした倫理意識は、昭和・大正・明治さらには江戸時代、そして最終的には、中国古代の哲学思想に基づいているのです。

5.孔子における天と人道

では、血縁を重んじるという理念の淵源である中国古代の思想はどのように形作られているのでしょうか。

先程申し上げたとおり、古代の中国では、天は万物を生み出すものであり、万物を支配するものと信じられていました。万物はその中に精霊を持ち、この精霊の意志命令によって動くと信じられていたわけです。精霊は鬼神と呼ばれ、天が最高の鬼神と仰がれていました(板野長八「中国古代における人間観の展開」22頁)。

さて、紀元前11世紀頃に成立した周王朝がまだ存続していた春秋時代(紀元前770年~403年)に活躍したのが孔子(前551年~479年)です。

孔子は「論語」で、天が徳を我に授けられたと言いました。徳は人間としての能力であり、人間の本質です。人間は天のもとに立つものであって天から独立したものではありません。さらに、孔子は五十にして天命を知ると言いました。天は人間の則るべきものなのです(板野26頁)。

このように、孔子は天が人間を含めた全てを生み出すと考えていたわけです。人間が則るべきものとしての天は、天道として受け容れられました。これは天命と言うこともできます。

ところが孔子は、「性相近し、習相遠し」、天与の素質としての性の点ではそれほど開きはないが、後天的な習慣修養によって人と人との間に開きが出ると言っているのです(板野26頁)。このことは、天が人間の全てを決定するわけではない、人間の独自性もある、こういったことを意味しているのではないかと考えられるのです。

ここには人道といったものがあります。人道は天道に対する存在です。

では、孔子は人道をどのようにとらえていたのでしょうか。

性は天与の素質であり、そこには徳も含まれます。そして習に勤めることにより徳は充実し、命に達します。この充実すべき部分も、実は、天命によって規定されたものです。孔子の人間は宿命的なものだったわけです(板野28頁)。

孔子は天によって定められた分というものを重視しました。また、礼とは習俗として伝統的に行われていた行儀作法で、聖人が天に則って制定したものです(板野29頁)。個々の人間は自己を抑制して礼を履行し、個を分に限定すべきであり、君主は人道・礼を超えることはできず、したがって被支配者には分だけの独自性があったのです(板野30頁)。

ただ、孔子の人道は、天道の内部で分化したものでした。そして、その分を守り、人の道を遂行して天道に近接すべきとされたのです(板野34頁)。

さて、孔子は人間の徳を仁によって表明しました。仁とは人間性であると言うことができます。思いやり、愛といった人間社会を成立させているもので、仁は諸徳を包括するものであり、諸徳の根本であるものでした(板野36頁)。

そして、孝悌は仁を為すの本であり、己に克ちて礼に服するを仁となすとしました(板野14頁)。仁は孝悌を出発点とし、孝悌の精神を推し及ぼすことによって実現されるわけです。

孝悌はまさに血縁関係を基盤にしたものです。言うまでもなく血縁関係は天が定めたものです。孔子の意図は、血縁を基礎とする家族・宗族の閉鎖性を維持し、その独自性を前提とした上で、君臣関係を明らかにするところにあったと考えられるのです(板野31頁)。

6.墨子の尚賢説・兼愛説・尚同説

孔子の後に活躍した墨子は、宗族や家族の世襲制、閉鎖性に拘束されないで、尚賢使能を行うべきとしました。徳や賢を内容とする能力に応じて公平に人材を官に登用し、労力や功績によって賞や禄を定めて私なく、士と庶(農工商)との世襲的な別を排し、官と民や貴と賤の別の固定化を無くそうとするものです(板野42頁)。

士庶の別の世襲制は、周の封建制のもとでの基本的な秩序であったわけですが、この墨子の尚賢説は、周の封建制度、族的体制から庶民を解放しようとするものだったわけです(板野43頁)。

また、墨子は兼愛説を唱えました。それは、自分の身と人の身、自分の家と人の家、自分の国と人の国を互いに愛し合い、君と臣、父と子、兄と弟が愛し合い、君は恵で臣は忠、父は慈で子は孝、兄は友で弟は悌であるようにして相利相愛して天下に平和と利をもたらそうとするものです。宗族や家族を重んずると父は子にとって絶対的なものとなりますが、墨子の兼愛の考えに従うと父の権威は絶対性を失うことになります(板野44頁)。

そして、墨子は、尚同説を唱えます。尚同とは上同であって、下の者が上に同ずること、上が是とするものを是とし、上が非とするものを非とすることです。墨子がなぜこのようなことを主張したかと言うと、人間がこの世に出現したばかりの支配者がまだいない時代には、人の意見は十人十色で、人は互いにそしり合い、天下は乱れ、禽獣の世界だったと考えたからです。そこで天下の賢者を選択して立てて天子としたのです。尚同はこの天子を支えるものであり、専制君主を生み出すものなのです(板野45.46頁)。この点、ホッブズの理論にとても似ていると私は思いました。

墨子は孔子のよって立った血縁に基づく宗族を基本とする身分を否定したわけです。それにもかかわらず専制君主を導いてしまったのはなぜでしょうか。

それは個々の人間が、身近な人間関係における身分的拘束を打ち破るためにその上の権威を求めたからだと私は思うのです。庶民は宗族の身分によって束縛されていたわけですが、兼愛説が他人を愛し、尚同説は士を飛び越える機能を果たしたわけです。

先程申し上げた通り、孔子は孝悌を基本原理におきました。これに対し、墨子は、利を基本原理におきました(板野51頁)。孝悌は先天的なものですが、利は人間の賢能が生み出した後天的なものです。

孔子の規範は、道であり礼でした。礼は罰による強制は伴わない道徳的なものでした。これに対し墨子の規範は賞罰を基本とする法律でした(板野52頁)。

さらに墨子は非命説を主張しました。例えば、人間の貧富の差を宿命だとするような考えに対し、人間の力によってこれらは解消できるといったことを強く訴えているのです(「墨子非命編」)。要は天命を排除したわけです。

しかし、墨子は天や鬼神は強く信じていました。この点、孔子は独自の分を持っていましたが、墨子は天の意志と人道との間に矛盾を感じることはなかったわけです(板野58頁)。それは身近な人間関係における身分を飛び越えた君主が、天と直結する呪術者であることによります(板野59頁)。

以上申し上げてきたとおり、孔子と墨子とはその根本の考えが大きく違います。次にその違いが何に由来するかを私なりに考えてみたいと思います。

7.孔子と墨子に見る分割の論理と創造の論理

私は、他者への拡がりの確証の論理の設定について、分割の論理と創造の論理という二つの対立する概念を提案しました(「分割の論理と創造の論理」参照)。

「分割の論理」とは、全体から出発する論理で、組織全体の中のどの位置にあるかにより他者の注目を得るものです。出発点である組織の全体それ自体に大きな価値を置き、その全体の中で自分あるいは対象がどの位置にあるか、その地位の価値の高低によって他者の注目を得る論理です。

これに対し、「創造の論理」とは、個から出発する論理で、何を行ったか、何を作り上げたかによって他者の注目を得る論理です。個々の行為に意味を認め、行為に大きな価値を置き、その行為の成果である作り上げたものを評価する立場です。行為以前の出発点の価値はゼロです。いかに努力したか、どのような成果を上げたかを他者の注目を得るための価値の評価基準とします。

ここで、評価の対象となる価値とは、誰もが求めるものであって比較可能な意味のことです。分割の論理と創造の論理は、この価値の配分の方法に大きな違いがあるわけです。前者は社会全体での地位や身分というものに価値を置き、後者は個々人の行為とその結果に価値を置くわけです。

端的に言って、孔子の思想は分割の論理を重視したものであり、墨子の思想は創造の論理を重んじたものだと私は思うのです。

人々は様々な活動を行います。それはある意味、創造の論理の設定であると言えます。しかし活動を行うには秩序が絶対に必要です。秩序を維持するのは全体の価値であり、この全体の価値に基づくのが分割の論理です。創造の論理と分割の論理両者とも必要不可欠であり、かつ密接不可分なのです。そして、他者への拡がりの確証の論理である以上、精神といった共通の基盤が必要となります。したがって、精神が所属する天といったものが絶対的に関係してくるわけです。

8.天と人間

天は万物を生み出すものであり、万物に命令し、万物を支配するものとして信じられていました(板野23頁)。では、孔子と墨子は、人間は天とどのようにかかわりあうと考えていたのでしようか。

孔子は分を設け、分の範囲で、天からは一定の独立性を保ちました。徳や礼に基づいた人道が明確に存在し、その人道に則って生きる事が天命にかなうとされたわけです。

しかしながら、このように考えると、分を越え出る創造の論理は許されないことになります。創造の論理は分の中に限られてしまうわけです。

これに対し、墨子は、直接天とつながる個人を考えました。孔子のような分を設けず、直接天とつながるわけです。したがって、創造の論理を分に制限されることなく自由に設定することができるのです。

このように考えると、墨子には、先天的な天から与えられる先天的な人道が最終的には存在しなくなってくるわけです。社会はあくまで後天的なものであり、利といった基本原理に基づき形成されるのです。したがって孔子のような道ではなく、賞罰によって秩序を維持することになるのです。

孔子と墨子は天に服する点では同様ですが、人間と天との関わり合いは大きく異なります。

孔子は既存の秩序を重視し、既存の秩序を維持する全体の価値に基づく分割の論理をその主な内容とするものでした。先天的な血縁を前提とした礼を守る孝悌の徳こそ人道の根本だったわけです。これは封建社会の基礎である族的体制を維持するものでした。

孔子の人間は、天道・天命と、礼によって律せられる人道、この二重の規範の下にあったわけです。その中で、人間は人道・礼に終始し、天に直接働きかけることはなく、天命は運命と認識されたわけです(板野59頁)。

一方、墨子は創造の論理を重視するものであり、天と結びつくことにより、既存の秩序を破壊する性格が強かったのです。孔子が重んじた孝悌の徳を傷つけるものなのです。これにより族的体制に組み込まれた庶民を解放し、専制君主の管理の支配下に移ることになったのです。

このように、墨子の人間は生まれながらにして個の独自性を持ったものでした(板野60頁)。そして専制君主は、天と直接結びつく呪術者であり、まさに天子だったわけです。

実は、墨子のような考えは、社会の変動期においては、歴史上多く見られるのではないかと私は思うのです。当時は春秋戦国時代でまさに中国の歴史上の変動期でした。

社会の変動期は既存の制度が崩壊し新たな制度が立ち上がる状態であると言えます。そこでは既存の秩序を維持する全体の価値が弱まることにより分割の論理も弱くなり、逆に個々人の創造の論理が発揮される、こういう状態ではないかと思うのです。

例えば、西欧近代の資本主義の成立期も同じような状況があったのではないか、マックス・ウェーバーが論じているプロテスタンティズムの天職といった概念も墨子の天とある意味似ている、このように私は感じたわけです。

既存の秩序を支える全体の価値とそれに基づく分割の論理の、個々の人間の創造の論理に対する束縛の強弱、これに基づいて社会は変化していくのではないか、このように思ったわけです。

参考文献

板野長八「中国古代における人間観の展開」岩波書店

森三樹三郎「中国思想史」第三文明社

武内義雄「中国思想史」岩波書店

高山岩男「哲学的人間学」多摩川大学出版部

孔子(貝塚茂樹訳)「論語」中央公論社世界の名著3

墨子(金谷治訳)「墨子」中央公論社世界の名著10

時枝誠記「国語学原論」岩波書店

M.ハイデッガー(細谷貞雄訳)「存在と時間」理想社

M.ウェーバー(大塚久雄訳)「プロテスタンティズムの精神と資本主義の精神」岩波書店

(2022年11月公表)

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